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島の細道 遣唐使や遣新羅史が通った西漕手(にしのこいで)

今回の島の細道は、遣唐使や遣新羅使が通ったと伝わる西漕手(にしのこいで)を紹介します。

 

南北に細長く90km以上ある対馬では元々陸続きだったため、船舶が東西への海域へ航行する際はとても大変なことでした。

東岸から西岸へ渡る際は東岸の小船越浦と浅茅湾(あそうわん)の東奥部にある西漕手浦(にしのこでうら)が接する地狭部(一番狭い場所)で、小舟は対馬の東岸から西岸へ人足に引かれて丘を越え、大船は東岸で積荷を降ろし西岸に置いてある別の船に運び換えました。

7世紀から9世紀の遣唐使や遣新羅使は本土から来て、この地で船を乗り換え唐や新羅へ向かったと伝わっています。

 

厳原港から国道382号線を北上、距離、23km車で約30分程で美津島町の小船越(こふなこし)に到着します。

西漕手(にしのこいで)は国道脇にある公衆トイレの横が入口になっており、車はトイレの駐車場に停め歩いて向かいます。

駐車場から畑の横を左に(西側)に向かうのですが、舗装もされていて湾の奥まで数百メートルしかないので気軽に行くことが出来ますよ。

 

細い道を歩いていくとすぐ前方に海が見えてきます。こちらが人足が舟を引いて東岸から西岸へ、または逆方向へ移動させた史跡跡です。

木のトンネルを抜けるとそこはもう西岸の西漕手浦。現在は無人の船溜まりとして利用されています。

このように陸続きの対馬で東西への海域に移動するのが不便だったことから、江戸時代には対馬藩により大船越を、明治時代には海軍によって万関瀬戸が開削されたことで、東西の海域がつながり、船舶の航行が容易になりました。

万関瀬戸 明治海軍が開削し、船舶は東西の海域へ容易に行き来出来るようになりました。

 

万葉集には遣新羅使一行がこの地に停泊した際に詠んだ歌がいくつか収録されています。

その中から三首紹介いたします。

百船(ももふね)の泊つる対馬の浅茅山(あさじやま) 時雨(しぐれ)の雨に黄変(もみだ)ひにけり

あまさかる鄙(ひな)にも月は照れれども 妹(いも)にぞ遠く別れ来にける

秋されば置く霜露に堪へずして 都の山は色づきぬらむ

皆様もこの地を訪れ万葉の時代を偲び一首いかがでしょうか?

地名:西漕手(にしのこいで)
場所:長崎県対馬市美津島町小船越
アクセス:本文参照


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