神話の里で海幸彦・山幸彦伝説に思いを馳せる

 皆さんは子どものころに、海幸彦、山幸彦の物語を読んだことがありますか?元は古事記や日本書紀にある神代(かみよ)の時代のお話ですが、対馬の和多都美(わたづみ)神社にはその神話に基づいた井戸が伝わっています。

玉の井03

 説明看板によると瓊瓊尊(ににぎのみこと)の御子、彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと=山幸彦)は、失った釣針を求めてこの海宮にたどり着き、井戸の横の木に登っていたところ、水を汲みに来ていた侍女に見つかり、海神の豊玉彦とその娘、豊玉姫に厚いもてなしを受け、当地で3年を過ごし豊玉姫を娶(めと)った。とあります。不思議なことにこの井戸、浜辺の近くにありながら現在でも清水が湧き出ているようです。

物語はさらにこの先があり、山幸彦は海神豊玉彦から失った釣針と潮満瓊(しおみつたま)・塩涸瓊(しおふるたま)の宝珠をもらって帰途につき、この2つの珠を使って兄の海幸彦を服従させます。井戸の前の浜は満珠瀬(まんじゅせ)、干珠瀬(かんじゅせ)と名付けられ、この物語の故事を伝えています。

 ちなみにこの彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと=山幸彦)は、初代天皇といわれる神武天皇の祖父に、豊玉姫は祖母にあたるそうですよ。

満珠瀬 干珠瀬

(満珠瀬から干珠瀬を望む)

 この湾は古代から真珠貝が多い場所として知られ、近年では養殖も盛んに行われてきました。昭和47年にこの湾の養殖いかだから産出した真珠は10.8cmの逸品で、「わたつみの神の瞳」と名付けられました。海神の娘、豊玉姫が祀られている当地にふさわしい真珠ですね。

 

名称 和多都美神社の玉の井

住所 長崎県対馬市豊玉町仁位55番地 グーグルマップ

アクセス 厳原市街から国道382号線を北上。34.7km車で45分。和多都美神社境内手前の太田浜にあります。

古の海宮 和多都美(わたづみ)神社

和多都美神社01

 3世紀末に書かれた中国の史書、「三国志 魏書 東夷伝 倭人条」には、当時の対馬の様子が書かれています。そこには土地が険しく良田が無いため、海の物を食し南北に市糴(してき)していたとあり、古くから朝鮮半島や中国大陸、九州本土へ穀物や生活必需品を求め、海を渡っていたことが伺われます。海に生きる人々にとってその信仰対象は海の神様ということで、今回は和多都美神社をご紹介。

 神社の祭神は豊玉姫命(とよたまひめのみこと)と彦火火出見尊(ひこほほいでのみこと・山幸彦)。由緒によると「神代の昔、海神である豊玉彦尊(とよたまひこのみこと)が、この地に宮殿を造りそれを海宮(わたづみのみや)、この地を夫姫(おとひめ)と名付けた。宮殿の大きさは高さ一町五反、広さは八町四方あった。上国より失った釣り針を探しに来た彦火火出見尊と豊玉彦尊の娘、豊玉姫は夫婦となった」とあり、海幸、山幸伝説や浦島太郎の竜宮伝説を感じます。

和多都美神社02

 大潮の満潮時には、拝殿が建つ辺りまで海水に浸かることから、拝殿脇の松の木の根は奥へ奥へと本殿下まで伸び、龍のようなイメージを抱かせます。

和多都美神社05

神社の裏手は、スダジイ、ウラジロガシ、など照葉樹や落葉樹の森。一歩足を踏み入れると清涼な空気が流れているのを感じるとても気持ちの良い場所です。この森は和多都美神社の社叢(しゃそう)として長崎県の天然記念物になっています。

和多都美神社04

 この和多都美神社は古くから阿曇族が宮司を務めていたと云います。九州の福岡市東区にある志賀島や和白、糟屋郡などを本拠地にして列島各地や大陸へ航海していた阿曇族と対馬の海の民との関係も深いものでした。

対馬特派員 鍵本泰志

名称   和多都美神社(和多都美神社) googleマップ

住所  長崎県対馬市豊玉町仁位和宮55番

アクセス 厳原市内より国道382号線を北上、仁位の手前を案内看板に従い左折。35km車で50分

山幸彦、海幸彦伝説発祥の地 和多都美神社


みなさんは、山幸彦、海幸彦の神話をご存知ですか?ここ、対馬の和多都美(わたつみ)神社は、豊玉姫(とよたまひめ)を祭り、山幸彦が失った釣り針を求めたどり着き、豊玉姫を妃としたと伝承される海宮の古跡です。

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