松村安五郎と吉野数之助の碑 大船越瀬戸

忠勇義烈の碑01

 厳原から国道382号線を北上すると大船越瀬戸があります。この場所はもともと地続きだった対馬で、地峡部だったことから、東岸と西岸の間の丘を船を曳いて移動させたり、積み荷だけを移動したりと苦労していました。そのようなことから寛文12年(1671年)、対馬藩は開削工事を行い東西を船で行き来出来るようになりました。

 今回はこの瀬戸にまつわる悲しい出来事のお話です。

大船越瀬戸02

大船越瀬戸03

 文久元年(1861年)2月にロシアの軍艦ポサドニック号が浅茅湾に侵入。対馬藩の許可を得ず芋崎を占領し、石積みの波止場、井戸、宿舎、家畜小屋を作ったりと傍若無人の限りをつくしました。

 大船越瀬戸は外国へ行く船が通るため、船改めの番所が置かれていました。同年4月にロシア艦のボートがここを強行突破しようとしたことから、番所の士卒や村人が止めようとしたところ、ロシア兵の発砲で農民の安五郎(後に士分扱いとなり松村姓)

が即死。士卒の吉野数之助と大塚清蔵が捕えられポサドニック号へ連れ去られました。その後二人は釈放されましたが、傷を負った吉野数之助は手当を拒み自ら命を絶っています。

  忠勇の碑  義烈の碑

 その後、咸臨丸で来島した幕府の外国奉行が交渉にあたるも進展はなく、幕府によるロシア領事への退去交渉や英国海軍の協力で半年に渡るロシア艦の占領は幕を閉じました。

 番所の跡には犠牲になったお二人の顕彰碑がひっそりと建っていました。松村安五郎の碑(写真左)は「忠勇」、吉野数之助の碑(同右)には「義烈」と彫られています。悲しい出来事ですが、現代では珍しい勇気や正義感、忠義の心を最後まで持ち続けたお二人から、教えられるものがありました。

対馬特派員 鍵本泰志

参考文献 対馬国志第二巻 中世・近世編 永留久恵著

 

名称 松村安五郎と吉野数之助の碑

アクセス 厳原から国道382号線を北上。大船越瀬戸の手前を左折し300m程進むと左手にあります。

厳原から約14km。車で20分 

 

 

 

 

 

旨い酒には美味しいつまみ 河内酒造蔵開き

河内酒造蔵開き 樽酒

 お酒好きにとってはたまらないイベント、蔵開きの日が今年もやってきました。もちろん私もこの日を待ち焦がれた一人です。

河内酒造蔵開き 入口の行列

 しぼりたての新酒が味わえるとあって、朝10時からの開催にも関わらずすでにこの行列。広い酒蔵内ではさっそく400円で酒枡を買って樽酒を飲んでる人や、100円で酒粕が詰め放題のコーナーに急ぐ人、利き酒コーナーで真剣にお酒と向き合う人など毎年おなじみの光景が広がっていましたよ。

河内酒造蔵開き 枡酒

河内酒造蔵開き 酒粕詰め放題

河内酒造蔵開き 利き酒

 そして忘れてはならないのが、旨い酒につきものの美味しいつまみ。色々探しているとありました。ハーブや鷹の爪を入れたオリーブオイルで対馬産のどんこしいたけを煮たアヒージョオイル煮。肉厚のどんこしいたけはプリプリした歯ごたえで、イタリアンな味付けとマッチしてとっても美味しかったです。酒蔵のあちこちではさっそく購入したお酒やおつまみで酒宴が始まっており今年の蔵開きも大盛況でした。

対馬特派員 鍵本泰志

河内酒造蔵開き どんこしいたけアヒージョオイル煮

河内酒造蔵開き 酒宴

名称 河内酒造合名会社

住所 長崎県対馬市美津島町鶏知甲490-1

電話 0920-54-2010

URL http://kawachi.shop-pro.jp/

エメラルドグリーンの海を一望できる「内良の浜」

今回は美津島町 鶏知(けち)にある内良(ないら)の浜へ行ってきました。

ここ、内良の浜は十数年前までは海水浴場として指定され賑わっていましたが、今では海水浴場の指定を外され静けさに包まれています。

波に削られ丸くなった小石が大量に転がる浜辺に座り込めば、聞こえる音は潮騒だけ。

見渡す限りの海を独り占めできます。

夏でも比較的人の少ない内良の浜ですが、冬の海岸を散策するのも一味違う対馬の海を楽しめます!

 

〒817-0322 長崎県対馬市美津島町鶏知甲12

対馬特派員 鍵本 拓弥

中世から続く豆酘の赤米行事 頭受け神事②

頭受け神事

今回は「釣り・魚関係」がテーマでしたが、中世から続く豆酘の赤米行事 頭受け神事①の続編をお送りします。 

 酒宴は午後7時半ごろから始まり、なごやかに談笑しながら夜遅くまで続きます。退席する際は本座を出るときと再度入室するときに、ご神体に柏手を打ち拝まな いといけないのですが、それを怠ると罰ゲーム的な感覚で、余計にお酒を飲まされるとか、「お酒はもう飲めません」と言うかわりに「「水ばかりやっても米は 育たないから下の田んぼへ水を流してください」とお酒を水に、頭仲間を田んぼに例えて応答するようなお米の神事らしい様々なしきたりや、取り決めがあるということでした。

赤米の甘酒02 赤米と豆酘雑煮 

 控えの間で見学していた私にも、本座と同じ多くの料理と、赤米の甘酒、炊き立ての赤米や豆酘雑煮(この地区に伝わる郷土料理)までふるまっていただきまし た。頭仲間と同様、注ぎ鉢からお椀に注いでもらった甘酒は、ほんのりピンク色をした自然な甘さの飲みやすいお酒で、「熱いうちに食べてください」と言って 出された赤米の炊き立てご飯は、お赤飯より薄い色でこちらも豆酘雑煮とともに美味しく頂きました。

ウケトウの使い
 しばらくたつとウケトウの家から裃(かみしも)姿の使いの方が来て、口上をのべるので、ハライトウの頭主はお使いの方へご神体の受け渡し時刻を告げます。(深夜の時刻)

 本来ならここで頭仲間は一度解散し、ご神体を受け渡す深夜に再度酒宴を開催します。ご神体をモリマシと呼ばれる役が背負いウケトウの家まで運び、今度はウケトウ側で料理や お酒が出され酒宴が始まり、明け方まで続きます。外が明るくなるとウケトウの頭主は赤米の餅を寺田(ご神田)に埋めに行き、頭受けの終了となります。

 中世から続く赤米行事ですが、継承者不足や、体力はもちろん、時間的にも金銭的にも大きな負担を強いられることから昭和50年代頃から頭仲間の減少が続き、現在この行事を伝えている頭屋は 主藤公敏氏だけとなっています。そのため頭仲間の役は主藤氏の親戚、知人が務め、ハライトウとして送り出したご神体は、ウケトウとして同じ家の本座へ戻ってきま す。このようなことから現在は実際にご神体を背負うところは2年に一度しか行っておらず、今回は見ることは出来ませんでした。

主藤公敏氏ご夫妻

(頭主として赤米行事を伝承している主藤公敏氏と奥様)

 主藤氏は、「先祖代々 受け継がれてきた赤米と行事を後世に残すことが自分の務めだと思い、頭主が自分一人になっても続けている。宮中献穀にも選ばれ天皇陛下にもお会いできた し、国の無形民俗文化財にも指定された。世の中には頭が良い人はいくらでもいるが、私たちの先祖が守ってきたような農業の大切さや米作りの大変さを知り、 なぜこのような行事が続いてきたかを考えてもらいたい」とおっしゃってました。TPP問題でゆれる日本、米離れが叫ばれる日本において考えさせられるお言 葉でした。

対馬特派員 鍵本泰志

豆酘の赤米行事(つつのあかごめぎょうじ)

平成14年 国指定無形民俗文化財

平成25年 宮中献穀(宮中行事の新嘗祭に奉納)

年中行事

四月 籾種おろし

五月 田植え

十月 稲刈り

旧暦十月十七日 お吊り坐し

旧暦十月十八日 初穂米

旧暦十二月三日 斗瓶酒

旧暦十二月十九日 日ノ酒

旧暦十二月二十八日 寺田様の餅すき

旧暦一月二日 初詣り

旧暦一月五日 潮あび

旧暦一月十日 頭受け

旧暦一月十二日 三日祝い

寺田(ご神田)の場所 長崎県対馬市厳原町豆酘(つつ)

アクセス 厳原市内から県道24号を南下、内院方面へ左折せず直進し県道192号をさらに南下する。内山と瀬を通過し左折し再び県道24号を南下。「多久頭魂神社、樫ぼの、赤米」の青い標識を左方向に進むと左手にある。厳原から21km、車で40分。

ご協力 

赤米行事保存会 頭主 主藤公敏氏

対馬市文化財課

参考文献

文化庁国指定文化財等データベース

海神と天神―対馬の風土と神々― 永留久恵 著 白水社

厳原町誌

対馬の赤米神事と年中行事 八坂信久

中世から続く豆酘の赤米行事 頭受け神事①

赤米ご神体

 日本人の食を支えているのは主食であるお米ですが、最近では食の多様化に伴い米離れが進んでいます。今回は対馬の南端、豆酘(つつ)地区に伝わる赤米(あかごめ)行事のひとつ「頭受け」を通じ、古来より大切に守り育てられてきたお米の大切さを考えてみたいと思います。

赤米

 赤米は稲の古い品種で、豆酘の赤米行事は、頭屋制に基づき1300年以上の長きにわたり伝承されてきました。この行事は頭仲間と呼ばれる供僧家と農家により行われ、寺田と呼ばれるご神田で栽培された赤米は、秋に収穫され新しい俵に詰められて、旧暦の十月十七日、頭仲間が1年交代の輪番で務める頭主の自宅の本座(座敷)に吊るされます。これを祈祷することで米俵がご神体となり、本座へは頭主でさえもみだりに入ることは出来なくなります。

 その後も赤米を氏神に供える初穂米をはじめ様々な神事が行われ、翌年の旧暦一月十日の夜から翌朝にかけ、本座で神様として祀られている米俵を今年の頭主の家へ運ぶ神渡りの儀式、「頭受け」が行われます。ご神体を送り出す頭屋をハライトウ、お迎えする頭屋はウケトウといい、行事が行われる本座にはトコブシを盛り付けた松竹梅の島台や赤米で搗いた臼の形をした餅が飾られます。

島台飾り 臼型餅

 ご神体の下に料理が載ったお膳やお酒などが準備されると和装の頭主をはじめ頭仲間が集まり、控えの間からご神体に対して柏手を打ち本座へ入っていきます。まず最初に赤米で作られた甘酒がふるまわれるのですが、女性は入れないため配膳役の男性が頭仲間へ甘酒を注いだり、お酒の準備を行います。 

本座への出入り

赤米の甘酒ふるまい

 

中世から続く豆酘の赤米行事 頭受け神事②へ続く

対馬特派員 鍵本泰志

豆酘の赤米行事(つつのあかごめぎょうじ)

平成14年 国指定無形民俗文化財

平成25年 宮中献穀(宮中行事の新嘗祭に奉納)

年中行事

四月 籾種おろし

五月 田植え

十月 稲刈り

旧暦十月十七日 お吊り坐し

旧暦十月十八日 初穂米

旧暦十二月三日 斗瓶酒

旧暦十二月十九日 日ノ酒

旧暦十二月二十八日 寺田様の餅すき

旧暦一月二日 初詣り

旧暦一月五日 潮あび

旧暦一月十日 頭受け

旧暦一月十二日 三日祝い

寺田(ご神田)の場所 長崎県対馬市厳原町豆酘(つつ)

アクセス 厳原市内から県道24号を南下、内院方面へ左折せず直進し県道192号をさらに南下する。内山と瀬を通過し左折し再び県道24号を南下。「多久頭魂神社、樫ぼの、赤米」の青い標識を左方向に進むと左手にある。厳原から21km、車で40分。

ご協力 

赤米行事保存会 頭主 主藤公敏氏

対馬市文化財課

参考文献

文化庁国指定文化財等データベース

海神と天神―対馬の風土と神々― 永留久恵 著 白水社

厳原町誌

対馬の赤米神事と年中行事 八坂信久

石と宗教 明嶽神社

明嶽神社02

 対馬の神社を巡っていると、ご神体が石となっている所が多いようです。なぜ石を信仰するのか不思議に思われるかもしれませんが、例外を除き、石そのものを祀っているのではなく、神様の依り代として石を利用しているのであって、信仰の対象は神様なんですね。また、別の利用法としては、海岸で石を拾い、病気平癒などの願いを込めて神社に奉納するような地区もあります。

 そこで今回は、落ちてきた星がご神体と伝わる「明嶽神社」をご紹介。対馬の中央、西海岸にある豊玉町の銘(めい)にあり、明星嶽の懐に抱かれ、地元の方々に大切に祀られています。鳥居の右側の木がすごいですね。

明嶽神社01

明嶽神社03

 神社の由来を津島紀事で調べてみると

『明星神社 神体石 長さ一尺ばかり あたかも人の形のごとし。 かつて風もなく、雲もなき夜に星 渚に落つ。 その声 雷のごとく。 変化して石となる。 よってその岩の上に壇を築いて神石を祝い奉る。・・・・』(原文は読みにくいので、読みやすく変更してます) とあり、こちらのご神体は隕石を祀っていることがわかります。現在は、明星嶽の神を祀る嶽神社と合祀されているのか、鳥居には明星神社ではなく「明嶽神社」の額が掛っています。

明嶽神社04

明嶽神社06

 津島紀事には、ご神体の隕石が落ちた様子は書かれていても、その年代が書かれていないため、いつの時代の隕石かわかりませんが、津島紀事は江戸時代末期の文化六年(1809年)に書かれているので、それ以前のこととなると少なくとも200年以上前から祀られていることになります。人の形をした30cmほどの落ちてきた星。昔の人々はそこに宇宙の神秘と神の存在を感じたんでしょう。また、対馬全島にいえることですが、その信仰が代々受け継がれて大切にされていることも忘れてはいけません。

 神社の近くに対馬の伝統的な高床式倉庫がありました。衣類や穀類を収めていた倉で火事の際、類焼しないよう民家とは離れて建てられています。昔は板状の石を重ねて屋根にし、強風にもびくともしませんでした。こちらの倉庫は瓦を使ってありますね。ただ、痛みが激しく、早急な修理が必要かと感じました。だんだんこういった倉庫も少なくなっているので、出来れば後世に残していきたいですね。

銘の高床式倉庫

 

対馬特派員 鍵本泰志

地図Google map

名称  明嶽神社

場所  長崎県対馬市豊玉町銘

アクセス 厳原港から42km 車で1時間10分

国道382号線を北上。豊玉町田を左折、同町小綱を右折。

参考文献 「津島紀事」平山棐 著