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ご利益ヨロシク 対馬特派員取材鍵本泰志|2015.7.15

珠丸(たままる)の悲劇

気象条件に恵まれれば、遠く壱岐の島影が見える漁火公園からの眺め。のどかな風景ですが、終戦直後にこの海峡で大勢の命が失われています。

DSC0002-800-640x424.jpg昭和20年(1945年)当時、満州や朝鮮半島からの引揚者や戦災者が、着の身着のままで対馬へたどり着き、九州本土までの船便を心待ちにしていました。

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戦後初の対馬から博多港への航海を担ったのは、九州郵船の珠丸(たままる・800トン)。10月10日に対馬の北端、比田勝港を出港し同日の夕方に厳原港へ入港。鹿児島県阿久根市に上陸した台風のため厳原港で欠航を続けた後、10月14日午前6時に、足止めされていた大勢の乗客を乗せ、博多港へ向け出港しました。

順調に航海していた珠丸ですが、午前9時に壱岐、勝本港の北方15マイル付近で、旧日本軍が敷設した機雷に触れ爆沈。乗船名簿には乗員、乗客730名となっていましたが、実際には切符を購入せずに乗船したため名簿に記載がない乗客が数多く、1000名以上乗っていたとみられています。
壱岐からは、機雷の掃海が不十分な海域にも関わらず、多くの漁船が命がけで救助に向かいましたが、救助されたのは甲板付近にいた185名のみ。女性や子供を中心に、船内にいたほとんどの方は珠丸とともに対馬海峡に沈みました。

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この事故から26年後の昭和46年(1971年)。遺族等によって犠牲者の慰霊と航海安全、平和への祈りを込めて珠丸遭難者慰霊塔が建てられています。800名以上とみられる犠牲者が出たにも関わらず、この事故は大きく報道されなかったため、全国的に知られることはありませんでした。

戦争が終わり、大陸や朝鮮半島からやっとの思いで引き揚げ、あと少しで九州本土の土が踏めるというところで旧日本軍の機雷により亡くなった大勢の犠牲者。この事実を忘れず、後世に伝えていきたいものです。

対馬特派員 鍵本泰志

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