対馬には昔、大人の仲間入りをする行事として、徒歩と渡海船を利用し、対馬全島に祭られている六観音参りが行われていました。着飾った若い男女が足早に歩き去る光景が対馬の春の風物詩だったそうです。私もご利益を授かろうと思い立ち、徒歩では無理ですから車でお参りをしてきました。走行した総距離はなんと260km。改めて対馬の広さを感じ、昔の人の健脚ぶりに驚かされました。
対馬六観音は、昔の郡制で役所が置かれていた上県町佐護、上県町仁田、峰町三根、峰町吉田(後に豊玉町曽へ移転)、厳原町佐須、厳原町豆酘の六ヶ所に配置されたもので、伝承では白鳳13年(673年)、僧の行基が唐からの帰路、対馬に立ち寄り六体の観音像を刻んだと言われています。(実際は年代も作り手も違うそうです)
六観音が配置されている場所を示した歌が伝わっています。
「佐護川の流れは瀬田(仁田)よ井出の里(三根)
曽の光射す(佐須) 豆酘の観音」
まず最初は佐護川のほとりにある上県町の佐護(さご)観音堂から。こちらには観音堂創建当時の正観音と後に併祀された如意輪観音の二体が祭られています。
次は、国道沿いにある上県町瀬田(仁田)の国本神社へ向かいました。昔、ここに仁田寺があり観音様が安置されたということですが、現在は違う場所に移されているとのこと。と……。
三番目は、峰町三根の観音堂があった小牧宿彌神社へ。こちらの観音像は残念ながら天保10年(1839年)に火災で焼失し、焼けぼっくいになったそうです。
四番目は、当初、峰町の吉田にあった観音像ですが、現在は豊玉町の曽にある修林寺に安置されている正観音像です。この観音像移転のいきさつは、私も子供の頃によく聞かされていたので、紹介しますと。「昔、吉田にあった寺の僧と曽の修林寺の僧は仲良しで、よく村境の双六坂で博打を打って楽しんでいた。ある日、負け続けて賭ける物が無くなった吉田の僧は寺に祭られていた観音像を背負って来てそれを賭けた。結果、吉田の僧が負け、修林寺の僧に観音像を持っていかれてしまった」というもので、子供心に面白い和尚さんがいたんだなと思っていました。
五番目は、厳原町樫根にある法清寺の境内に建立されている観音堂で、歌にある佐須の観音が明治25年にこちらに移転されたものです。しゃいました。
六番目は厳原町の豆酘、多久頭魂神社内にある観音堂です。こちらも残念ながら昭和32年の火災で、祭ってあった十一面観音像は灰になりました。
僧、行基はこの六体の観音像以外に、切りくずしの木片でさらにもう一体の正観音像を作成し、厳原町の成相に堂を建て祭ったそうで、六観音参りの巡礼者は一番最後にこちらにお参りするならわしがありました。現在は堂が無く、跡地として保存されています。
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