堂崎天主堂

福江島を代表する教会と言えば、第一に名前が上がるのは、奥浦地区にある堂崎教会でしょう。

信仰の自由が認められてからすぐの明治12年、マルマン神父によって仮の聖堂が建てられて、福江島における

宣教活動の拠点になりました。

その後、ペルー神父の指導によって、鉄川与助も一人の大工として参加した赤レンガ造りの、現在の天主堂が

明治41年に完成しました。

現在は、カクレキリタンの資料館となってミサなどには使われていないので、残念ながら教会群の世界遺産候補からは

はずれてしまいましたが、五島を代表する教会のひとつで、毎年、多くの観光客の皆さんが訪れています。

教会は穏やかな奥浦湾の入り口に建っていますが、駐車場の前の入り江には、こんな可愛らしい岩がまるで夫婦か

カップルのように寄り添っています。

マルマン神父とペルー神父の像です。

その横には、26聖人の殉教者の一人であるヨハネ五島の像もあります。

そして木々の緑の中には、マリア様が。

堂崎天主堂の先には堂崎民族資料館があって、昔の生活雑貨や信仰の痕跡などを展示しています。

狭い海峡の向こうには、久賀島。

海岸沿いを走る車もはっきり見えるほど近くにあります。

五島特派員 庄司好孝

江上教会に行ってきました

ユネスコの諮問機関イコモスの方が先月末から長崎県に来て、キリスト教関連の世界遺産登録の調査を始めましたね。先日は五島に来たみたいですけど、やっぱり気になります。

五島からは五輪教会と江上教会が登録の候補に挙がっています。

そこで、行ってきましたよ。江上教会へ。

左に見えるのは、今は廃校になってしまった江上小学校です。その奥の森の中にひっそりとたたずむのが江上教会です。

教会に上がる手前の一本の木の枝が、ある一点からだけハートに見えるんですけどわかりますか。

画面中心の少し右です。わかった人にはなんかいいことがありますように・・・。見つけれなかった人にもそれなりのいいことが・・・。

僕が訪れたときに、折り良く関東地方からの観光の方々がいらしてて、天主堂で賛美歌を歌っていました。

教会の隣には教会守さんが住んでいらして、その方が事前に申し込みがあった観光客の皆さんに賛美歌を教えているんだそうです。

この方の毎日のお世話で教会の周りはきれいにされていました。

大雨があると教会の周りの森に4つの滝が出現するんだそうです。残念ながら観光で訪れる方々が、この滝を見るのは困難でしょうね。

 

玄関の模様はステンドグラスではなくて木彫りに彩色したものです。

開放した窓から賛美歌が聞こえてくるのは素晴らしく至福の時間でした。

善人にならねば。

 

江上教会に行かれる場合は、奈留港からタクシーかレンタカー、もしくはレンタルバイクでおよそ15分程度です。

僕もジオラマを作ってみました。

五島特派員 庄司好孝

空海ストーリー。その2「大宝寺」

空海の話を書くんだったら、ホントは最初にこの大宝寺を書くべきでした。なんといっても「西の高野山」なんですから。

大宝寺の縁起では、はるか昔に(ということは年代はわからないということです)天竺のマガダ国から仙人が聖観音様を奉持して、この大宝の地に上陸して、

草庵(こざっぱりしたあばら家みたいな感じだったのかな・・)を建てて観音院としたそうです。その後大宝元年(701)に、当時の中国王朝・前漢が倒れてごちゃごちゃしていた中国の震旦という国から、道融和尚が三輪宗を広めるために日本に向かう途中で遭難して、この地に漂着したのでやむをえず大宝に留まる事になりました。(なんだか小難しい話になってすみません)

この事件?を聞いた第41代の持統天皇が、むちゃくちゃ豪華な伽藍を建立して道融和尚のために三輪宗弥勒山大宝寺としました。

お待たせしました。ここから空海の登場です。

第16次遣唐使派遣で入唐した空海は真言密教の秘法一切を習得して意気揚々と帰国の途についたのですが、嵐にあって命からがらこの三輪宗弥勒山大宝寺の目の前にある浜に漂着したのです。

そこで、命が助かったのもひとえに真言密教のおかげだ(と思ったかどうかは知りませんが)と、日本で始めてこのお寺で真言密教の講筵(こうえん)を行って、三輪宗を真言宗に改めさせました。このために大宝寺は西の高野山と呼ばれてるんです。

お疲れ様でした。

これで四国88箇所巡りもできるんです。

五島は、カトリック教会の島だと思われてるかもしれませんが、神社仏閣にも歴史ある史跡がいっぱいあるんですよ。

ちなみに、はるか昔に仙人が奉持した聖観音様は、善光寺、浅草寺と並んで日本三聖観音様といわれています。

五島特派員  庄司好孝

五島最古の神社

五島で最も古い神社は、持統天皇時代の695年に建立された五社神社です。五島家の始祖、家盛が宇久島で宇久家を起こしたのが1187年ですからそのはるか昔から五島にあったんですね。江戸時代初期に末社4社を合祀してから現在の五社神社になったみたいです。場所は建立当時と同じく現在の上大津町で、創健時のままに御神体・漢鏡一面などの宝物が残されています(見たことはないですが)。

石の鳥居(肥前型鳥居というそうです)もいかにも古く、参道は苔むしています。

手水もすごくきれいで、ちょっとビックリしました。時々そうじゃない神社がありますよね。

歴史の重みも共に担ぐんでしょうね。

いかにも重そうです。

こちらが本殿。 私もお賽銭を入れて「なんでもいいので小さな喜びをお願いします」と願掛けをしてきました。

相撲はそもそも神事だったので、歴史ある神社には必ず土俵があります。

あれ? バーキュー炉じゃないですかー?

違いますね。バチが当たりそう。

その昔はこの神社の近くまでが入江になっていたそうで、すぐ裏手からは弥生・縄文の遺跡が発掘されています。

五社神社は福江港から空港方面に、車で五分ほどです。

五島特派員 庄司好孝

私が好きな教会です

ご存知のように、五島は鉄川与助を生んだ島なので、教会は島のいたるところに建っています。

その中でも、私が一番好きな教会が、岐宿町にある水の浦教会。

大浦天主堂によく似ていますが、木造瓦葺で白いペンキの外観は海際に良く似合います。目の前は穏やかな水の浦漁港。

これは私の水彩画です。

水の浦漁港の高台に建っています。

右奥の建物は修道院です。そしてこの写真を写した場所はカトリック墓地。26聖人の一人ヨハネ五島の墓碑がある場所です。

昭和41年頃の水の浦天主堂です。

実は、この教会の建築には私が小さい頃に可愛がってもらった近所の大工さんもかかわっていました。

てっぺんの十字架の架台工事は半端なく怖かったらしいです。

パワースポットというよりは、清浄な空気に包まれる場所だと思います。

五島特派員 庄司好孝

五島は空海ストーリーの宝庫です

空海。言わずと知れた真言宗の開祖です。諡(おくりな)は弘法大師。司馬遼太郎の「空海の風景」にも当時の福江島の克明な説明が書かれています。

空海が「死ヲ冒カシテ海ニ入ル」とまで覚悟を決めて、唐へ向けて出帆したときの感動の言葉「本涯ヲ辞ス」(辞本涯)の像は三井楽町柏の崎に立っています。

嵐に見舞われるなど、苦難の末に帰朝した空海は、上陸した浜に建つ大宝寺で本邦初となる真言密教の講筵(こうえん)を行いました。以来、大宝寺は西の高野山としてあがめられています。このお寺については機会をみてレポートしますね。

今回はその空海がらみで、空海が名づけをした五島家の祈願寺「明星院」のレポートです。

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五島のお盆

五島では、お盆になると夜お墓に家族が集まります。墓石の周りを木の枠で囲い、そこに提灯をつるして灯りをともします。どこの墓も同じです。お盆の3日間、夕暮れになるとそれぞれのお墓に、それぞれの家族が集まり、提灯をともす。線香を立ててご先祖様に手を合わせます。そして、親類のお墓や、親しかった人のお墓にも線香をたててまわります。そこで、しばらく会っていなかった親類の人たちと近況を報告しあったりします。子どもたちは、お墓の敷地内で花火をします。爆竹も鳴り響くので、お墓中、けっこうにぎやかです。

お墓に集まるしきたりは、五島の人にとってとても大切なものなので、お盆の3日間は、都会からたくさんの人が帰ってきます。街は急ににぎわいます。同窓生と会ってお酒を飲んだりするのもこの時期ならでは。島の人と人、都会に出た人と島の人を、お盆がつなぎあわせている。ご先祖様たちのたくらみなのではないか、とさえ時々思います。

そんなわけで、私は、お盆のときに墓にいるのがとても好きです。なんだか落ち着きます。いろんな人に会うことで、自分がだれなのかを再確認しているようにも感じます。最終日の15日には、提灯をつけていた木の枠を取り外します。島を離れている人たちは、「来年もまたくるけんね」とお墓に声をかけて、その場を去ります。観光客の方たちはなかなか目にすることはないと思いますが、私の中で、お盆の夜のお墓は、五島の中でもいちばんオススメしたいくらいの名所です。