2015年7月5日、ユネスコ世界遺産委員会は、「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」(長崎県を含めた8県の23施設)を、世界文化遺産に登録することを決めました。選ばれた23施設のうち、8施設は長崎市内にあり、日本における産業革命での長崎県の功績を物語っています。
日本の産業を近代化に導いた8つの構成資産「高島炭坑」「端島炭坑」「旧グラバー住宅」「小菅修船場跡」「三菱長崎造船所第三船渠」「三菱長崎造船所ジャイアント・カンチ・レバークレーン」「三菱長崎造船所旧木型場」「三菱長崎造船所占勝閣」には、どれにも様々なエピソードがありますが、中でも軍艦島(端島炭坑)は群を抜いています。ここでは、数奇な運命に翻弄され続けた軍艦島(端島炭坑)についてお話していきます。
軍艦島物語 その1
時には来る者を拒む要塞のようにも見える迫力満点の軍艦島ですが、元々は南北約320m、東西約120m程度の小さな岩礁でした。幕末時代にはすでに、石炭がとれることは知られていました。近隣の漁師たちが島に渡り、必要な分だけ掘り起こし、燃料として使用していたようです。のどかな時代でしたね。
かつて長崎県は、国内有数の出炭県でした。県内には多くの炭坑がありましたが、そのなかでも長崎市の高島炭坑は、元禄時代から石炭の島として知られた存在でした。高島炭坑の本格的な開発は慶応4年に始まりましたが、高島炭坑の支抗として開発が始まったのが端島炭坑でした。ところがこの小さな島は、いざ掘り始めてみれば本抗にも負けない優良炭と埋蔵量を持った宝の島でした。
こうして西の果て、長崎市の沖に浮かぶ小さな島・端島は、巨額の資金を投入され、当時の日本の最先端の技術で構築された採炭のための人工島として、スタートを切ったのです。