軍艦島物語㉒

 長崎市内から車で約40分ほどの場所にある野母崎町は、肉眼で軍艦島を眺めることができる、唯一の町です。

 ドライブラインに縁取られたような野母崎の町は、沿岸線に何カ所かビューポイントがあります。中でも高浜アイランドは、高浜海水浴場にカフェなどが併設された複合施設になっており、家族連れやカップルにピッタリの場所。カフェ内で食事したり、コーヒーを飲みながら洋上の軍艦島を楽しめます。

 また、隣接する800メートルほどの白砂のビーチ近くに遊歩道や芝生スペースがあり、絶好の撮影ポイントになっています。

 夏になるとマリンスポーツで遊ぶことができるので、軍艦島を眺めながらカヌーやシーカヤックを楽しめるのが最大の魅力です。

 「軍艦島にはすでにクルーズ船で何度か上陸した」、という方、観光慣れした友人を驚かせたい方…。野母崎での、ひと味違う軍艦島の楽しみ方はいかがでしょうか。

photo:2016©P3Labo

軍艦島物語⑳ 〜石炭のお話 その5〜

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 かつて長崎県内には20カ所近い炭鉱があり、日本の石炭産業の躍進に貢献しました。しかし、アメリカで石油採掘の技術が開発され、サウジアラビア、イラクなどで巨大な油田が次々と発見されると、安価で輸送や貯蔵に便利な石油は、石炭に変わる新しいエネルギー源として台頭。一気に消費量が増えました。そして、それは石炭産業の終焉を意味しました。それまでエネルギーの主役だった石炭は、石油の消費量と反比例してその消費を減らし、同時に、数百あった日本の炭鉱は次々と閉山しました。

 しかし、現在の日本でも石炭は使われており、消費量はエネルギー全体の22%を占めています。長崎県西海市にある松島火力発電所は、国内で初めて輸入炭を使った火力発電所です。おもにオーストラリアや中国からの輸入炭を使って発電しており、九州・四国・中国の電力会社に供給しています。 

軍艦島物語⑲ 〜石炭のお話 その4〜


photo:2015©P3Labo

 日本は小さな島国でしたが、石炭の豊富な埋蔵量と西洋式の技術をうまく取り入れたため、イギリスから起こった近代化の波に乗ることができました。

 明治時代になり石炭が産業用燃料として価値が認められると、長崎県の高島や端島の他にも、新政府が後押しをして北海道の釧路、夕張、福島県の常磐、福岡県の築豊、三池、佐賀県唐津、長崎県の松浦など、日本各地に炭鉱が開かれました。同時に、香港や上海など国外にも輸出するなど、鉄道、船舶などの輸送用燃料として、石炭の大量消費の時代へと突入しました。その結果日本は、製鉄産業や造船業が興隆。工業大国として世界中から注目を集めました。

 このように日本で次々に炭鉱が開かれ、石炭産業が日本の基幹産業として躍進を続けた背景には、長崎県の多大な貢献がありました。

軍艦島物語⑱ 〜石炭のお話 その3〜

 人間が熱エネルギーとして使い始めたのは紀元前3〜5千年前頃のこと。中国で陶器作りに使われていた、ギリシャの鍛冶屋が燃料として使っていた、など諸説あります。

 石炭の本格的な利用は1774年以降。イギリスのワットが蒸気機関の改良に成功してからでした。蒸気機関は、それまでの水力、風力、家畜などの自然エネルギーとは比較にならない動力を生み、大きな工場の機械を降る稼働させました。そしてその結果、生産能力を大きく伸ばしました。以後、イギリスでは石炭の採掘と製鉄が盛んになり、産業革命へと発展していきました。

 木炭が主な燃料だった日本では、九州三池の農民が「燃える石」を偶然発見し、石炭利用が始まったとされています。しかし、当初は利用もごく僅かで、塩作りに利用され程度でした。やがてイギリスからの産業革命の波が日本にも押し寄せると、西洋式の採炭技術は急速に発展。増産体制の整備に伴い、石炭は船、鉄道、工場用の燃料として本格的に活用されました。

photo:2015©P3Labo

軍艦島物語⑰ 〜石炭のお話 その2〜


photo:2015©P3Labo 坑内バッテリー機関車

 化石エネルギーである石炭を掘る方法には、「露天掘り」と「坑内掘り」があります。露天掘りは、土砂や岩石を取り除き、石炭を地上に露出させて採炭します。昔は採炭前の岩石などを取り除く作業自体が、非常に困難でしたが、1900年代からは作業の機械化、輸送技術の進化により、改善されました。

 露天掘りはオーストラリア、インドネシア、アメリカ、カナダなどで現在でも行われています。

 坑内掘りは地下深くにある石炭層までトンネルを掘り、そこへ資材や作業員を運んで採炭作業をします。海中に炭層があつた軍艦島では、海面下1km以上の所で作業をしていました。垂直の竪坑は地中深く延び、そこから切羽と呼ばれる石炭の採掘現場まで進み、作業をするのです。採掘した石炭は炭車で地上に運ばれ、他の鉱物が混ざっていないか選別した後、出荷となりました。

 掘るのも運ぶのも、文明の進化ととともに機械化されましたが、危険な作業であることには変わりはありませんでした。

軍艦島物語⑯ 〜石炭のお話 その1〜


photo:2015©P3Labo

 今の若い方にはピンとこないかもしれませんが、かつて石炭は、「世界を動かした」と言っても過言ではないほどのエネルギー源でした。

 石炭は、古代の植物などが土や土砂で地中に埋もれ、地熱や地殻変動の影響を受けて変質した化石の一種です。数千年から数億年の間地中に堆積し、地中から掘り出して点火すると燃え、燃料となるのです。

 成分は炭素、酸素、水素などで、燃料となることから「燃える石」と呼ばれたり、石炭産業が日本の基幹産業だった時代には「黒いダイヤ」と呼ばれたこともありました。産地により品質に差はありますが、無煙炭、瀝青炭、泥炭、褐炭などの種類があり、炭素が多いほどよく燃えます。

 現在、人類のエネルギー源はガス、石油、電気などが主流になっています。しかし世界規模では、石炭と同じ「化石燃料」である石油の可採年数が41年、天然ガスは61年。比較すると、可採埋蔵量が約8609トンと言われている(2010年の統計)石炭の可採年数は127年です。限りある資源であることに変わりはありませんが、今まで石炭の最大の欠点とされていた臭いや大気汚染の問題を解決する研究も進んでいることから、エネルギー源としての石炭を見直してもよいのかもしれません。

軍艦島物語⑮ 〜向こう三軒両隣〜

 石炭産業華やかなりし頃、長崎県内の炭鉱で働く人たちは何処も皆、仲良く暮らしていました。特に軍艦島は「一島一家」と表されるほど、島民同士の結束の強さには定評がありました。

 就寝する時でも家の戸に鍵をかける習慣は有りませんでしたが、泥棒に入られたという話はあまり聞きません。

 いつもとは違う、珍しい料理を作ったり、多めに作り過ぎた時などは、近所にお裾分けすることも当たり前のことだったようです。

 共同風呂では、幼い子どもを連れた母親が入ってくると、誰からともなく子どもを預かり、洗ってやっていたものだとか。中には、子育て中に一度も自分の子どもを風呂に入れたことがないという母親もいたそうです。しかしその母親も、自分の子育てが一段落すると、誰に言われるわけではなく、自然に他家の小さい子どもを湯にいれたり、身体を洗ってやったりするようになったと言います。

 当時の軍艦島の島民たちは、嬉しいことも悲しいことも全てを共有し、島民全体が1つの家族である、という意識の元で、仲良く助け合って暮らしていたと言う事です。

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軍艦島物語⑭ 〜島に響く不思議な音〜


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 現在の軍艦島は無人島で、建物の崩落も多いため何となく不気味なムードが漂っています。

 その昔、軍艦島の中では毎月決まった日になると、アパート群のあちらこちらから、カランコロン、カランコロンと言う音が響き渡ったと言います。島に引っ越して間もない人にとって、正体不明のその音はまさに恐怖。怖さのあまり迂闊に人に訊くのもためらわれ、しばらくの間その日が来るたび震えていたものだそうです。

 やがて音の正体が判明。島に響く「カランコロン」という音は、下駄の音でした。この音が響き渡る日は、軍艦島で働く鉱員たちの給料日。島内では、日常の買い物はまとめて支払うことが多く、給料が出た日には各家の奥さんたちが支払いに駆け回ったものなんだそう。

 「幽霊の正体みたり枯れ尾花」…島中に響いたカランコロンの音は、家計を預かる女性たちが履く下駄の音だったのです。

軍艦島物語⑬ 〜これも一種の健康被害?〜


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 土は、人間の足にとって大切なクッションですが、現代では人間が歩く道路のほとんどが整備され、土の上を歩くことは少なくなっています。その代わり、人間の運動や動作に関する研究が進み、人体への衝撃を和らげる履物が多く開発されています。しかし、昔はそのような機能を持つ履物などは開発されていませんでしたから、跳んだり撥ねたりした時の衝撃を和らげるのに土は重要な役割を担っていたのです。

 明治時代から埋め立てや拡張を繰り返して来た軍艦島は、それぞれの時代の最新鋭の技術を施されたコンクリート製の人工島です。子どもたちへの教育的見地から、島の大人たちは屋上緑化などにも取り組ましたが、子どもたちの小さな足が踏むのは土ではなく、コンクリートでした。

 当時の軍艦島で、土があるのは歩道の一部と、端島小中学校グラウンドくらいのものでした。しかし子どもたちは、どんな環境にあろうとも毎日元気いっぱい、走り回って遊びます。そのためなのでしょうか、軍艦島育ちの子どもたちには、関節痛に悩まされる子が多かったのだそうです。

軍艦島物語⑪ 〜島の暮らし 先進の島と呼ばれて〜


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 人工島である軍艦島には、「日本初」と呼ばれるものが多く存在しました。炭坑アパートを建築する際にも、一部に新しい試みがありました。鉄筋部分に使われたワイヤーは炭坑の廃材。セメントを作る時に使った砂は、対岸から運んだものだったとか。今で言うエコやリサイクルに近いチャレンジだったようです。

 また、完成したアパートにはダストシュートが設置されていました。家庭用のゴミを、専用の投入口から落とすと一カ所に集まるようになっていて、集合住宅の高所に住む人にとっては便利なシステムです。このダストシュート、今ではさほど珍しいものではありませんが、昭和30年代の軍艦島のアパート各棟に設置されていたことを考えると、やはり軍艦島は先進の島であり、島の採炭には大きな期待が寄せられていたことがわかります。

 昭和30年代の日本では、豊かさの象徴としてテレビ、洗濯機、冷蔵庫を「三種の神器」と呼んでいました。庶民の間にはテレビがいち早く広まり、洗濯機、冷蔵庫が続きました。もちろん、国内の全家庭が持っていたわけではなく、比較的裕福な家庭から順番に購入が広まりました。

 この時代に、国内でも普及率の高さを誇ったのが軍艦島。昭和33年の新聞には「島(軍艦島)の家庭は100%の電化」と報じたものもありました。

 戦後の端島で育った子どもたちにとっては、テレビも冷蔵庫も洗濯機も、島内のどこの家庭にも備わっていたため、特別珍しい存在ではなかったとか。後年、成長した島の子どもたちが進学や就職のために軍艦島を離れて初めて、故郷での暮らしが豊かなものだったと感じるのが常だったそうです。