変化する楽しさを味わいつつ、出島をぐるり1周

今年もあと少し。みなさまにとって今年はどんな年でした? 今回の細道は、年末特別編。変わりゆく出島周辺を散策しますよ。

 

 

 

 

 

 

 

知っている方も多いと思われますが、出島は只今、工事中なんです。私が歩いたときは、長崎県庁側から出島電停辺りまで、ぐるりと囲いができていました。この囲いには、いろんな情報が書いてあったんです。

 

 

 

 

 

 

 

再び橋が架かり、2017年にリニューアル予定とな。出島と対岸の江戸町に出島表門橋が架かり、昔の出島へ行くルートが甦るらしい。

 

 

 

 

 

 

 

壮大なスケールで工事が進められている横で、このウサギが気になってしょうがなかったので、思わず激写。ズラズラッと並んだ姿が面白い。どうせだったら、長崎らしく尾曲がり猫にしてほしかった!?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

あ、田上長崎市長だ。このポーズは、出島の扇形を表しているそうです。来年あたり長崎で流行るかも。

 

 

 

 

 

 

 

西側からはこんな感じです。撮影時は、2015年12月上旬。当然、出島表門橋はできていませんが、想像してみました。橋周辺には、公園も整備されます。

 

 

 

 

 

 

 

当コーナーにふさわしい細道を発見しました。ベンチもあって、国道沿いなのになんだか落ち着く空間。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

プチ細道の先にあったのは、西側護岸石垣でした。荷揚場の石垣で、オランダ船の積荷を揚げおろししていたそう。

 

 

 

 

 

 

 

現在は、こちらの西側メインゲートと東側ゲートの2カ所から、出島に入られます。

 

 

 

 

 

 

 

西側メインゲートから路面電車が走る南側へ。洋館を見ながら、ロマンチックに歩きたい派はこの細道がオススメ。左手には、明治36(1903)年、長崎に在留する外国人と日本人の親交を深める場として建てられた旧長崎内外クラブが見られます。

 

 

 

 

 

 

 

旧長崎内外クラブを通り過ぎてすぐのところに、また別の洋館が見えてきます。明治11(1878)年に建てられた旧出島神学校です。現存するわが国最古のキリスト教(プロテスタント)の神学校といわれています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

神学校からすぐのところには、またまた史跡が。明治32(1899)年に、九州初の電話交換局がここにありました。当初、電話交換する業務にあたったのは女性。明治時代に、職業として女性が働くことは珍しかった。ここで働く女性たちは、当時の憧れの的だったそうです。

 

 

 

 

 

 

 

東側にやってきました。ここには、出島橋があります。明治23(1890)年に、中島川の河口に架けられていた鉄製の橋が、明治43(1910)年に移設され、名称も現在の出島橋へと変更。一般に使用されている道路橋としては、日本で最も古い橋梁です。

 

 

 

 

 

 

 

実は、出島商館員(年間パスポート)があります。大人820円と安かったので、思わず買っちゃいました。

 

 

 

 

 

 

 

来年、出島の中央部分に6棟の復元建造物が完成予定。輸入品を保管していた土蔵や、出島の管理人の詰め所など、当時の出島を忠実に再現するそうです。どんな風に変わっていくのか。特に、来年から2017年まで、目が離せません!

 

長崎市出島周辺・長崎県庁前~西側護岸石垣~

南側護岸石垣~出島橋まで

徒歩約30分※出島観覧時間含まず

軍艦島物語⑱ 〜石炭のお話 その3〜

 人間が熱エネルギーとして使い始めたのは紀元前3〜5千年前頃のこと。中国で陶器作りに使われていた、ギリシャの鍛冶屋が燃料として使っていた、など諸説あります。

 石炭の本格的な利用は1774年以降。イギリスのワットが蒸気機関の改良に成功してからでした。蒸気機関は、それまでの水力、風力、家畜などの自然エネルギーとは比較にならない動力を生み、大きな工場の機械を降る稼働させました。そしてその結果、生産能力を大きく伸ばしました。以後、イギリスでは石炭の採掘と製鉄が盛んになり、産業革命へと発展していきました。

 木炭が主な燃料だった日本では、九州三池の農民が「燃える石」を偶然発見し、石炭利用が始まったとされています。しかし、当初は利用もごく僅かで、塩作りに利用され程度でした。やがてイギリスからの産業革命の波が日本にも押し寄せると、西洋式の採炭技術は急速に発展。増産体制の整備に伴い、石炭は船、鉄道、工場用の燃料として本格的に活用されました。

photo:2015©P3Labo

クツゾコ狙って釣り糸垂らす

寒くなったり、暖かくなったり。今年の冬は、気温のアップダウンが激しいですな。今回の釣りスポットは、雲仙市国見町の多比良港に行ってみました。ドライブがてらに釣りをするなんていいかも、と思わせてくれる絶景の釣り場です。

 

 

 

 

 

 

 

多比良港といえば、熊本行きのフェリー発着場。片道45分しかかからないので、日帰り旅行に最適です。今日もカラフルなフェリーが停泊していて旅情を誘うわぁ。釣り人に聞いたところ「熊本から来て、多比良港で釣る人もいる」とのこと。

 

 

 

 

 

 

 

この、のんびりとした態勢に惹かれ、思わずあれこれ聞いてみました。オジさんが狙っているのは「底もの」。クツゾコ(舌平目)とかカレイとかです。「あそこが釣れる」「この釣り道具は良い」などの釣り情報は、なんと息子さんと交換しているとか。親子共通の趣味っていいな。会話も弾む、いい家庭なんだろうな~。

 

 

 

 

 

 

 

小型船舶と釣り人と。日曜日の昼前でしたが、船がわりと頻繁に行き交っていました。何を獲っているのかしら??

 

 

 

 

 

 

 

有明海の方に目を向けると、遠くに防波堤があり、そこにも釣り人たちが。港からだと、防波堤が海にぽっかりと浮いたようにしか見えん。見えんので、気になってどうなっているのか近寄ってみることにしました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

前写真の防波堤にたどり着くためには、この砂山のある工事現場を通っていくしかなさそう。工事がお休み中だったので、通り抜けさせてもらうことにしました。それにしても、ココだけ写真で切り取ると、異国に来た感じがしてならない。

 

 

 

 

 

 

 

近づいてわかりましたが、防波堤から防波堤へとつながっていました。そりゃそうだ。独立していたら何かと不便だもんね……。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ここまで歩いたので、港から一番遠い防波堤まで行ってみることに。防波堤に行くには、この鉄製ハシゴのみが頼り。

 

 

 

 

 

 

 

「さっきまでもっと釣り人がいたんだけどね」と手前のオジさんが教えてくれました。この日は、天気は良いけど、風が強い。なかなか釣れないと、みなさん早めに退散したようです。あ、フェリーが熊本から来た。

 

 

 

 

 

 

 

小さいタコが釣れたと聞いたので、撮らさせてもらいました。バケツの中で、墨を吐きまくって威嚇中。有明海のイイダコは、美味しいと評判。今晩のお酒のアテはコレだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

赤い灯台(かな?)に釣り人。オジさんも底もの狙いだそうで、釣り竿を下にかまえてました。景色は最高ですが、ホント風が強い。冬の釣りは、防寒対策バッチリでないといかん。強風が吹き荒れる中「オジさんたち、がんばって!」と心の中で声援を送り続けたのでした。

 

雲仙市国見町多比良港

長崎駅前から車で約1時間半

 

軍艦島物語⑰ 〜石炭のお話 その2〜


photo:2015©P3Labo 坑内バッテリー機関車

 化石エネルギーである石炭を掘る方法には、「露天掘り」と「坑内掘り」があります。露天掘りは、土砂や岩石を取り除き、石炭を地上に露出させて採炭します。昔は採炭前の岩石などを取り除く作業自体が、非常に困難でしたが、1900年代からは作業の機械化、輸送技術の進化により、改善されました。

 露天掘りはオーストラリア、インドネシア、アメリカ、カナダなどで現在でも行われています。

 坑内掘りは地下深くにある石炭層までトンネルを掘り、そこへ資材や作業員を運んで採炭作業をします。海中に炭層があつた軍艦島では、海面下1km以上の所で作業をしていました。垂直の竪坑は地中深く延び、そこから切羽と呼ばれる石炭の採掘現場まで進み、作業をするのです。採掘した石炭は炭車で地上に運ばれ、他の鉱物が混ざっていないか選別した後、出荷となりました。

 掘るのも運ぶのも、文明の進化ととともに機械化されましたが、危険な作業であることには変わりはありませんでした。

奥深き人形浄瑠璃の世界!

今年もあと少しで終わり。みなさま、いかがお過ごしですか? 今回のおまつりは、東彼杵郡波佐見町にお邪魔。1954(昭和29)年に県無形民俗文化財に指定された皿山人形浄瑠璃が公演されるとの情報を得たので、さっそく行ってみましたよ~。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

波佐見皿山器替えまつりのひとつとして公演されるとのこと。場所は、皿山人形浄瑠璃会館。まつりの青いノボリが目印になりました。

 

 

 

 

 

 

 

館内に入ると、大勢のお客さんがいらっしゃいました。公演前に人形が見られるよう、ステージにディスプレイ。

 

 

 

 

 

 

 

私、この人(いや人形)と仲良くなれそうな気がする。女中のおふく(左)です。しかし、残念ながら、今回の演目ではお菓子を持ってくるぐらいで出番少なし。

 

 

 

 

 

 

 

演目を始める前に、登場人物の紹介がありました。皿山人形浄瑠璃は1732(亨保17)年、亨保の大飢饉がきっかけで、やきものが売れなくなったので、皿山地区の人々が飢えをしのぐため、人形浄瑠璃を始めたといわれています。

 

 

 

 

 

 

 

今回の演目は、伽羅先代萩(めいぼくせんだいはぎ)。さらに、この演目の中の「政岡忠義(ちゅうぎ)の段」といわれる話です。あの、伊達騒動を題材にしていて、ざっと説明しますと、若君・鶴喜代の命を狙う栄御前が、頼朝公から鶴喜代へ下賜されたと持ってきたのは毒入りのお菓子。これを、同じ悪役の八汐が鶴喜代に食べさせようとする。悪事をわかっていながらも、なかなか止められない乳母の政岡。それを察知した政岡の子・千松が代わりに食べてしまい、毒を盛ったのがバレる!と思った八汐は、千松を手討ちにしてしまうのでした。自分の子どもが手討ちにされたにもかかわらず涙を見せない政岡。栄御前は、きっと子どもを別の子にすりかえたに違いないと思い込み、陰謀を思わず打ち明ける。だが、政岡は若君のため、忠義のためにと思って、我慢していただけ。人目を偲びながら我が子の死を悲しむのでした……。

 

 

 

 

 

 

 

艶やかな着物をまとう悪役の八汐。若君の命を狙っています!

 

 

 

 

 

 

 

人形ですが、所作が優雅。悪役とはいえ、お辞儀する姿も品格があります。

 

 

 

 

 

 

 

さっきまであんなに品が良かったのに。政岡の子どもを手討ちにする八汐。あまりに動きがリアルすぎて、マジでこわかった。

 

 

 

 

 

 

 

舞台近くで、大夫(たいふ)が物語のあらましやセリフを臨場感たっぷりに語ります。途中、人形であることを忘れてしまいました。

 

 

 

 

 

 

 

「実は……」と若君の毒殺を企んでいた栄御前が、政岡に話す場面。漫画で例えると、顔に何本も縦線が入って、「ガガーン」という効果音が書き足されるシーンです。ショックのあまり微動だにしない政岡の姿が胸を打ちました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

人気がなくなったのを見計らって、政岡は亡くなった我が子を抱き上げ、さめざめと泣きます。忠義のためとはいえ、目の前で殺されるって。つらすぎます。

 

 

 

 

 

 

 

政岡が泣く場面は、私もなんかもらい泣きしちゃったなぁ。目の部分は、ちゃんとまばたきもできるんです。

 

 

 

 

 

 

 

「な~んだ、やっぱりアンタの子どもだったじゃん!!」といわんばかりに、政岡が泣いたことを知った八汐が、今度は政岡を切りつけようとします。もう、政岡も黙ってない。2人とも表情がコワい。ザ・女同士の戦い。

 

 

 

 

 

 

 

政岡と八汐一味の女中らしき方(もしかして味方??)が、なぎなたをもったところで演目終了。どうやら、八汐は成敗された模様。悪役は討ち取られても、なんだか気持ちは晴れず。討ち取っても愛する子どもは帰ってこない……。もやもやっとして、いろんなこと、考えさせられた約30分の公演でした。

 

 

 

 

 

 

 

失礼ながら、こんな立派な皿山人形浄瑠璃会館があるとは知らなんだ。また別の演目も見てみたいと思いました。

 

平成27年12月6日

波佐見皿山器替えまつり・皿山人形浄瑠璃公演

皿山人形浄瑠璃会館(東彼杵郡波佐見町折敷瀬郷)

軍艦島物語⑯ 〜石炭のお話 その1〜


photo:2015©P3Labo

 今の若い方にはピンとこないかもしれませんが、かつて石炭は、「世界を動かした」と言っても過言ではないほどのエネルギー源でした。

 石炭は、古代の植物などが土や土砂で地中に埋もれ、地熱や地殻変動の影響を受けて変質した化石の一種です。数千年から数億年の間地中に堆積し、地中から掘り出して点火すると燃え、燃料となるのです。

 成分は炭素、酸素、水素などで、燃料となることから「燃える石」と呼ばれたり、石炭産業が日本の基幹産業だった時代には「黒いダイヤ」と呼ばれたこともありました。産地により品質に差はありますが、無煙炭、瀝青炭、泥炭、褐炭などの種類があり、炭素が多いほどよく燃えます。

 現在、人類のエネルギー源はガス、石油、電気などが主流になっています。しかし世界規模では、石炭と同じ「化石燃料」である石油の可採年数が41年、天然ガスは61年。比較すると、可採埋蔵量が約8609トンと言われている(2010年の統計)石炭の可採年数は127年です。限りある資源であることに変わりはありませんが、今まで石炭の最大の欠点とされていた臭いや大気汚染の問題を解決する研究も進んでいることから、エネルギー源としての石炭を見直してもよいのかもしれません。

赤鳥居をくぐっていろんな願掛けを

今回のパワースポットは、蛍茶屋エリアへ足を運んでみました。今年もあと少し。なんだか気ぜわしいけど、あれこれお願いしたい! そんな方にピッタリの松嶋稲荷神社をご紹介します。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

蛍茶屋跡近くにある一の瀬橋をさらに東へ行くと、句碑がありました。達筆すぎて読めん。説明看板を探してみました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ありました、虎の巻。「松風のさとに琴柱の赤鳥居」と書いてあります。この句は、長崎生まれの国文学者・足立半顔(1859~1921年)が詠んだそう。句碑が建てられたのは、明治25(1892)年だから、半顔がご存命のときに出来たのかぁ。半顔もたびたびこの界隈を訪れたらしいです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

句碑を通り過ぎ、ものの1分もたたないうちに鳥居が現れました。冬の曇天に灰色の鳥居が同化。アースカラーすぎてかなり地味ですが、個人的にこの色合い、なんだか落ち着くので好きです。しかし、さっきの句では「赤鳥居」と詠まれていたな……。

 

 

 

 

 

 

 

あ、お狐さまの先に赤鳥居が見えました。なるほど~。神さまの遣いであるお狐さまは、シュッとしたお顔で、気合いが入っています。

 

 

 

 

 

 

 

赤というか朱色ですな。鳥居をくぐるだけでパワーアップしちゃいそうです。

 

 

 

 

 

 

 

拝殿に到着しました。どっしりとした雰囲気です。松嶋稲荷神社の祭神は、豊受比賣命(とようけひめのみこと)。千余年の昔からあったそうで、老樹の下に稲荷の小さな祠があり、霊験あらたかなお山として、多くの浄財や寄進があり、神殿ができたらしいです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

お次は、拝殿から向かって左側にご注目を。松嶋稲荷神社於百大明神があります。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

松嶋稲荷神社於百大明神の右手には、松嶋稲荷神社=学問の神と書かれていて……。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

左手には於百大明神=子授の神・安産の神・子育の神と書かれてました。おもにヤングピープル向けとみた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

合格祈願OK、子宝祈願OK。残るは、人生の晩年期に深く関わるこちら!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

不呆尊神(ふほうそんじん)です。長寿を授け、呆けを封じてくれるそう。学問や子宝は関係ナシと思っていたアラフォーな私も、こればっかりは素通りできず。思わず、お賽銭を多めに入れてお参りしました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

こちらの場所が、蛍茶屋ということでピンときた方は恐らく歴史好き? 松嶋稲荷神社は旧長崎街道にあるんです。ここをずっ~と歩けば、花のお江戸かぁ。足立半顔の句でも口ずさむか。

 

 

 

 

 

 

 

実は、国道34号線沿いに神社はあります。普段、車で通る方も多いのでは。人生の節目節目でお世話になりたいと思わせる、そんなご利益いっぱいの神社です。

 

松嶋稲荷神社

ご利益 商売繁盛、学問成就、子宝祈願など

蛍茶屋電停より徒歩約3分

  

軍艦島物語⑮ 〜向こう三軒両隣〜

 石炭産業華やかなりし頃、長崎県内の炭鉱で働く人たちは何処も皆、仲良く暮らしていました。特に軍艦島は「一島一家」と表されるほど、島民同士の結束の強さには定評がありました。

 就寝する時でも家の戸に鍵をかける習慣は有りませんでしたが、泥棒に入られたという話はあまり聞きません。

 いつもとは違う、珍しい料理を作ったり、多めに作り過ぎた時などは、近所にお裾分けすることも当たり前のことだったようです。

 共同風呂では、幼い子どもを連れた母親が入ってくると、誰からともなく子どもを預かり、洗ってやっていたものだとか。中には、子育て中に一度も自分の子どもを風呂に入れたことがないという母親もいたそうです。しかしその母親も、自分の子育てが一段落すると、誰に言われるわけではなく、自然に他家の小さい子どもを湯にいれたり、身体を洗ってやったりするようになったと言います。

 当時の軍艦島の島民たちは、嬉しいことも悲しいことも全てを共有し、島民全体が1つの家族である、という意識の元で、仲良く助け合って暮らしていたと言う事です。

photo:2015©P3Labo