世界遺産に認定された産業遺産群の中でも、注目度No.1の軍艦島。テレビ、ネット等で、「軍艦島」の文字を見ない日は、ほとんどありません。 しかし当時の島人たちの暮らしぶりについては、あまり知られていないのが現状です。つい先日も、あるテレビ番組で「軍艦島は本土から水を直接持って来ていた」と、とても簡単に説明していました。
しかし、軍艦島において水の調達が楽に行えるようになったのが昭和32(1957)年になってから。それまでは、隣の高島の住民共々、生活用水では非常に苦労していました。
高島と軍艦島(端島)には昔から川も池もなく、湧き水もありません。そのため、2つの島の住人の飲料水などの生活用水は対岸から船で定期的に運んでいました。しかし、悪天候の為に船が出ない日もありますから、5日分は貯水できるよう、両島にはタンクも備えてありました。いずいれにしても、水はそこに行かなければ手に入りませんから、島の主婦たちは毎朝、肩に天秤棒を乗せ、棒の両端には水を入れた気桶を下げて、水を運びました。
明治19(1886)年になると、海水から蒸留水を作ることができるようにはなりましたが、全島民の喉を潤すには足りず、水汲みは相変わらず主婦の重要な仕事となっていました。
節水は日常的なことであり、共同浴場では浴槽は潮湯、風呂から出る時のかけ湯だけが真水でした。このように、先進の島と呼ばれ、各時代の最先端の技術で構築された軍艦島も、水の問題だけは解消できずにいました。
ところが、「生活用水の確保」という難問を一気に解決する、画期的な出来事が起こります。