軍艦島物語⑩ 〜島の暮らし 教育〜


2015©P3Labo

 

 軍艦島(端島)はコンクリート製の島のため、自然の土や緑のある場所は限られていました。そのため「緑無き島」という、あまり嬉しくないニックネームまでついていたのですが、島の住民たちは昔から、島内を少しでも緑化しようとアパートの屋上に庭園を造り、草花を育てていました。

 第二次世界大戦後には、島内にはいくつもの温室が作られ、野菜や草花を育てるための畑はもちろんですが、なんと水田までありました。もっとも、周囲を海に囲まれ、潮風が吹きつける島の屋上で育てられたものですから、どれも生育は良くはなかったようです。

 ただ、軍艦島の屋上緑化の目的は収穫そのものではなく、子どもの教育にありました。「緑無き島」で育つ子どもたちに、植物はどのようにして成長するのか、自分たちの暮らす土地は植物の成長に相応しいか否か。それらを学ばせるために大人たちは、子どもたちに種を植えさせ、屋上まで重い水を運ばせ、一緒に成長を見守りました。

 今でこそ耳に馴染んだ「屋上緑化」という言葉ですが、子どもたちの教育を視野に入れた取り組みが、軍艦島では何十年も前から実施されていたのです。

軍艦島物語⑨ 〜島の暮らし 潮害〜


2015©P3Labo

 前回の水問題も島の暮らしの中では重要なテーマでしたが、周囲を海に囲まれた島の宿命とも言える「高波」との戦いも、のどかさと過酷さが背中合わせになっており、軍艦島でも長い間繰り広げられたバトルでした。

 長崎の沖合いに浮かぶ南北約480m、東西約160mの小さな島、軍艦島は、少し大きめの台風や高潮の度に島内は水浸し。子どもたちの通学路はおろか、アパートにも海水が入り込み、階段や坂道は水に濡れて危険極まりない状態でした。

 そのために島内では危険防止策として綱を渡し、それを掴んで上がったり下りたり…。しかし、いつまでもこの状態ではいずれ事故が起きかねないと改修を繰り返した結果、軍艦島のアパートには様々な工夫が施されました。

 完成した年代により機能はそれぞれ違いますが、海に面して並ぶ建物は海側の窓を小さくし、廊下には潮を防ぐ鉄製のシャッターが設置されるなど、生活空間であると同時に防波堤に近い役割を持ちました。当時、最先端の技術を持って建てられた軍艦島の高層ビル群は、炭坑に働く人々の生活の場を確保すると同時に、台風や潮害に対する耐久性、また防火面での安全性を確保する役割も担っていました。

 もっとも、島に住む人たちは少々の高波には慣れたもので、「今日のはすごかね〜」「いや、前のとがもっと高い波の来たばい」と、白い波しぶきを見物していたようです。

 苦肉の策だった潮害対策の建物群ですが、最近ではクイズの問題になるなどしています。相変わらず根強い人気を誇る軍艦島ですが、実に様々な切り口があるものですね。

軍艦島物語⑧ 〜島の暮らし①水事情〜 後半

 ある時、「原油を海底に敷いた管で目的地まで送る」というアメリカのニュース映像を偶然観た関係者が、同じ方法で水を運べないだろうかと思いつきました。しかし、当時の日本では先例がなく、島の海底には工事を阻むであろう岩礁の存在もありました。また、波も荒い上に海域の深さは40M以上もあったのです。このような事情から、難問山積となっていた水問題でしたが、当時、豊富な出炭量を誇っていた2つの島のためにと、長崎県が中心になって専門家を交えた調査が行われました。

 その結果、軍艦島の対岸にある為石・土井首・川原の3カ所を水源として昭和31(1956)年に工事が始まり、昭和32(1957)年、ついに完成。 こうして高島と端島は、どこの家庭でも自由に水を使えるようになったのです。

 

 

 

三和町為石浄水場

 

 ところで、この時の海底水道の成功は、思いがけないおまけ付きでした。 難問とされていた場所での海底水道の実現により、他の地域でも工事の施工が続きました。そして高島と端島の工事を行った企業は、日本のみに留まらず、海外にも進出し、大きな成果をあげることができたのです。

軍艦島物語⑦ 〜島の暮らし①水事情〜 前半

 世界遺産に認定された産業遺産群の中でも、注目度No.1の軍艦島。テレビ、ネット等で、「軍艦島」の文字を見ない日は、ほとんどありません。  しかし当時の島人たちの暮らしぶりについては、あまり知られていないのが現状です。つい先日も、あるテレビ番組で「軍艦島は本土から水を直接持って来ていた」と、とても簡単に説明していました。

 しかし、軍艦島において水の調達が楽に行えるようになったのが昭和32(1957)年になってから。それまでは、隣の高島の住民共々、生活用水では非常に苦労していました。

 高島と軍艦島(端島)には昔から川も池もなく、湧き水もありません。そのため、2つの島の住人の飲料水などの生活用水は対岸から船で定期的に運んでいました。しかし、悪天候の為に船が出ない日もありますから、5日分は貯水できるよう、両島にはタンクも備えてありました。いずいれにしても、水はそこに行かなければ手に入りませんから、島の主婦たちは毎朝、肩に天秤棒を乗せ、棒の両端には水を入れた気桶を下げて、水を運びました。

 明治19(1886)年になると、海水から蒸留水を作ることができるようにはなりましたが、全島民の喉を潤すには足りず、水汲みは相変わらず主婦の重要な仕事となっていました。

 節水は日常的なことであり、共同浴場では浴槽は潮湯、風呂から出る時のかけ湯だけが真水でした。このように、先進の島と呼ばれ、各時代の最先端の技術で構築された軍艦島も、水の問題だけは解消できずにいました。

 ところが、「生活用水の確保」という難問を一気に解決する、画期的な出来事が起こります。

軍艦島物語⑥

 崩落寸前の建物が多い軍艦島は、クリエーターの才能を刺激するものがあるのでしょうか? 現在公開中の「進撃の巨人」では、撮影の一部を実際に軍艦島で行いました。2012年に公開された「007 スカイフォール」では、現地での撮影を希望していた撮影隊ですが、軍艦島でのロケハン時、その危険性の高さに撮影を断念、軍艦島をモデルにしたセットをロンドン郊外に組んで撮影を行いました。ボンドの敵役が住む町「デッド・シティ」として登場します。また、現在の軍艦島の荒涼とした風景はサスペンスにぴったり。2011年には内田康夫原作の浅見光彦シリーズ「棄霊島」、西村京太郎原作の探偵 左文字進シリーズ「長崎・軍艦島の殺意」の原作の舞台であり、ロケ地にもなりました。

 小説では前記の作品の他にも、赤川次郎、西木正明、皆川博子、そして大沢在昌等がそれぞれ小説の舞台として選びました。この他にもホラーゲームソフトに出て来る島のモデルとして登場したり、B’zのCD「MY LONELT TOWN」ではディスクジャケット、ミュージックビデオのロケ地になっています。  

 ところで明日、8月29、30日は、長崎出身のアーティスト・福山雅治さんのライブが、長崎市の稲佐山で開かれます。福山さんはカメラマンとしての才能も広く知られており、長崎市からの依頼を受けて軍艦島を撮影し、長崎県美術館で大々的な作品展を開催しました(2008年)。この時には全国各地からファンが訪れ、長崎を大いに沸かせたのでした。

軍艦島物語 おススメ撮影スポット

どこから写しても様になる軍艦島ですが、限られた上陸時間の中では、

撮影も計画的に行いたいもの。

あらかじめ撮影ポイントを調べておけば、時間を有効に使えます。

そこで島ステスタッフから撮影のおススメポイントをいくつかご紹介しましょう。

 

※ドルフィン桟橋から上陸して案内されるのは第一見学広場。

この広場から見上げた所に、ドドンと建っているのが「職員クラブハウス」です。

本社や取引先の関係者が出張して来た時の宿泊施設でした。迫力満点です。

 

※第2見学広場から見えるのは「総合事務所」。

ほとんどグレーの軍艦島の景色の中、多少くすんでしまってはいますが、

赤レンガがくっきりと浮かび上がります。

 

※第3見学広場のすぐ横にあるのは仕上げ工場。

 崩落した壁穴から30号棟アパートが覗いてます。

第3見学広場の奥には、ファンが多い建物、30号アパートが見えます。

島で一番古い建物です。

 

※海上からは、端島神社の祠がチラリと見えます。

かつては大きなお社があったということですが崩落し、岸壁近くにあった神殿を移築したそうです。

今回紹介した他にも、たくさんのビューポイント、撮影ポイントがあります。

怪我などに気をつけて、「あなたの軍艦島」の1枚を激写してくださいね。

軍艦島物語④

    

 今ほど有名では無かった時代にも、コアなファンが多かった軍艦島。

ファンのほとんどは、本職のカメラマン、またはカメラを趣味とする人でした。

 カラーで写せば青い空と群青の海、白い雲のコントラストが鮮やかに浮かび上がり、

モノクロで撮れば、風化の移ろいを味わい深く表現できる軍艦島。

一度この魅力を知ると、軍艦島に飽きる事はないとファンの皆さんは言います。

 

 撮影可能なポイントは限られている軍艦島ですが、どこから写しても絵になるのがこの島の強みであり、魅力。

乗船前の船内からの1枚、上陸してからの激写も、迫力ある作品になることでしょう。

 

ところで軍艦島での撮影は、ビューポイントの多さと上陸時間の短さからくるジレンマとの戦いでもあります。

解消法の1つとして、各見学広場では列の最後尾で移動すると、撮影時間が多めに確保できます。ただし、軍艦島は崩落の危険性と隣り合わせの建物がほとんどです。ガイドさんの注意に沿って撮影を楽しんでください。

軍艦島物語③

 日本で初めての鉄筋コンクリート製の建物は、明治44(1911)年に建てられた、神奈川県横浜市の4階建てのオフィスビル、三井物産横浜支店ビルだと言われています。

 端島では大正5(1916)年に鉄筋コンクリート製のアパートが完成しました。当初は4階建ての予定でしたが、増加を続ける人口に対応するため、後に7階建てに建て増しされました。その結果、このアパートは日本で初めての高層アパートとなりました。これが現在、崩落の危機にありながらも、軍艦島の象徴的な建造物としてファンが多い、「30号棟」と呼ばれる建物です。

 これほど歴史ある建物ですが、竣工当時の資料などはほとんどなく、設計者の名前もわかっていません。

 30号棟の完成後は7〜10階建ての鉄筋高層アパートが次々に建てられ、その数は優に70棟を越えました。

軍艦島物語 その2

 明治時代になり、いろいろな実業家たちが事業としての採炭に名乗りをあげました。

しかし、どれも失敗。やがて1870(明治3)年、天草の小山秀之進がどうにか端島炭坑を

 

開きましたが、これもまた失敗に終わりました。

その後、鍋島孫六郎、渡辺元を経て1890(明治23年)に、三菱社が権利を買い取り、

本格的な採炭事業を始めました。

 1893(明治26)年には端島の拡張工事がスタート。

1931(昭和6)年までの間に、6回に渡って工事が行われ、最終的には3倍の大きさになりました。

軍艦島物語

 2015年7月5日、ユネスコ世界遺産委員会は、「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」(長崎県を含めた8県の23施設)を、世界文化遺産に登録することを決めました。選ばれた23施設のうち、8施設は長崎市内にあり、日本における産業革命での長崎県の功績を物語っています。

 日本の産業を近代化に導いた8つの構成資産「高島炭坑」「端島炭坑」「旧グラバー住宅」「小菅修船場跡」「三菱長崎造船所第三船渠」「三菱長崎造船所ジャイアント・カンチ・レバークレーン」「三菱長崎造船所旧木型場」「三菱長崎造船所占勝閣」には、どれにも様々なエピソードがありますが、中でも軍艦島(端島炭坑)は群を抜いています。ここでは、数奇な運命に翻弄され続けた軍艦島(端島炭坑)についてお話していきます。

 

軍艦島物語 その1

 時には来る者を拒む要塞のようにも見える迫力満点の軍艦島ですが、元々は南北約320m、東西約120m程度の小さな岩礁でした。幕末時代にはすでに、石炭がとれることは知られていました。近隣の漁師たちが島に渡り、必要な分だけ掘り起こし、燃料として使用していたようです。のどかな時代でしたね。 

 かつて長崎県は、国内有数の出炭県でした。県内には多くの炭坑がありましたが、そのなかでも長崎市の高島炭坑は、元禄時代から石炭の島として知られた存在でした。高島炭坑の本格的な開発は慶応4年に始まりましたが、高島炭坑の支抗として開発が始まったのが端島炭坑でした。ところがこの小さな島は、いざ掘り始めてみれば本抗にも負けない優良炭と埋蔵量を持った宝の島でした。

 こうして西の果て、長崎市の沖に浮かぶ小さな島・端島は、巨額の資金を投入され、当時の日本の最先端の技術で構築された採炭のための人工島として、スタートを切ったのです。