月別: 2016年2月
懐かしの味「ピーターパンの対州飴」
軍の町に残る 陸軍墓地
リアス式海岸の浅茅湾(あそうわん)に面した美津島町(みつしままち)。空港や郊外型の大型ショッピングセンターが並んでいることから、周辺は新興住宅地の開発が進んでいます。明治時代には浅茅湾に面した竹敷に海軍の要港部が、町の中心である鶏知(けち)には陸軍の対馬警備隊司令部が置かれ、軍人を相手の料亭や商店が並び賑やかだったとか。その鶏知に陸軍墓地があるというので行ってみました。
旧道から細い山道を登っていくと、そこにあったのは古い公園。雑草は刈られて手入れされていましたが、ブランコや滑り台などの遊具はサビが出て、しばらく使われてないような感じでした。
公園の一角には、三つの石碑が並んでいます。一番大きな石碑は「忠霊塔」とあります。説明看板など無いため詳しくはわかりませんが、このような軍用墓地は平時の軍人を埋葬する目的で作られ、後に戦争で命を落とした戦没者も祀られるようになったようです。立派な石碑ですが、残念ながらところどころ欠けたり、敷石が割れていました。
真ん中の石碑には「表忠碑」とあります。慰霊祭のときにでも建てたのでしょうか?
三つめの石碑は「ロシア軍人の碑」とあります。石碑の裏に説明文が彫ってありました。それによると『1905年(明治38年)5月27日の日本海、対馬沖海戦において不幸にも対馬の地で永眠された軍人、五人を二つの浜石をもって墓碑とし、手厚く葬られていた。遺骨は1909年5月に長崎市の稲佐山口のロシア人墓地の合祀碑に埋葬。その後も住人たちにより墓地の清掃は絶えることがなかったという。ここに百周年を迎え、勇敢に戦った五人の氏名を刻むとともに両国の平和と友好交流が深まることを祈念して建立する・・・2005年(平成17年)5月27日 対馬・歴史顕彰事業推進委員会』とありました。
この説明にある対馬沖海戦とは、日本海軍の連合艦隊とロシアのバルチック艦隊の戦闘でのことで、司馬遼太郎の小説「坂の上の雲」やこれを原作にし、2009年から2011年までNHKで放送された同名のドラマで有名です。この戦闘で壊滅的なダメージを受けたバルチック艦隊のロシア兵たちが多数、対馬へ漂着したと伝わっています。
長年、対馬に住んでいる私も初めて訪れた陸軍墓地。日本とロシアの戦没者のご冥福をお祈りします。
対馬特派員 鍵本泰志
名称 鶏知陸軍墓地
場所 長崎県対馬市美津島町鶏知 グーグルマップ
アクセス 厳原市街から9.6km、車で15分
父との想い出 手作りイカ型でイカ曳き
我が家の茶の間のなげしには、古い餌木(えぎ)が掛っています。これはイカを釣る目的で作られた古くからある疑似餌で、私が子供の頃はイカ型と呼んでいました。
現在ではホームセンターの釣り具コーナーや釣り具店に行けば、色鮮やかな餌木がたくさん販売されていますが、昔はこのように木片から削りだし、色を塗って手作りしていました。手先が器用で釣り好きだった父(故人)は自分で作ったイカ型でミズイカ(アオリイカ)を釣るのが趣味で、小学校3年くらいから私も良く連れて行ってもらいました。
父は伝馬船(てんません)と呼ばれる櫓漕ぎの小さな船を持っていました。船尾で片手で櫓を漕ぎながらゆっくり船を走らせ、もう一方の手でイカ型の仕掛けをしゃくりながら釣っていた姿を思い出します。帰港するときに櫓を漕ぐのは私の役目。小さい体でエッチラオッチラと漕いで帰っていました。
釣果は季節や潮の流れもありますが、イカ型の出来に左右されるので良く釣れる物は本職の漁師さんが売ってくれと言ってました。そんなとき、人が良い父は惜しげもなく無料で上げていましたから我が家に残っているイカ型はこの3本だけとなりました。
スーパーの鮮魚コーナーには大きなミズイカが販売されていました。大きなものは2,000円を超える値段がついています。子供の頃は父のおかげでミズイカはもちろん、サザエやアワビ、ウニなども買うものじゃなくて食べたければ自分で獲るものだったのですが、現在では買うものになってしまったのはさびしいですね。
なげしから父が削ったイカ型を降ろして手に取ってみると「おーい、ミズイカ曳きに行くぞ」という父の声が聞こえたような気がしました。
対馬特派員 鍵本泰志