航海安全の守り神 住吉神社

鴨居瀬の住吉神社01

 対馬東部にある住吉瀬戸(紫瀬戸)に住吉神社が祀られています。古くから航海安全の神様として地元の漁民から信仰されてきました。昔は瀬戸が紫色に染まるほど紫色のサンゴが見られたそうですが、現在ではわずかしか見ることが出来ません。

由緒には、対馬で彦火火出見命と結ばれた豊玉姫が、この地に産屋を造り皇子を出産、抱育した古跡とあり、祭神は「彦波瀲武鵜茅草茸不合命(ひこなぎさたけうがやふきあえずのみこと)」と「三筒男命(住吉神)」となっています。

住吉瀬戸 紫瀬戸

紫瀬戸

神社は、瀬戸に浮かぶ岬にあるため規模は大きくありませんが、静かで美しい場所にあるため島内の他の地区からの参拝客も多いようです。拝殿には奉納の絵馬が多く、信仰の篤さが感じられました。

住吉神社 拝殿

住吉神社絵馬

住吉神社02  

対馬特派員 鍵本泰志

名称 住吉神社

住所 長崎県対馬市美津島町鴨居瀬491番地

アクセス 国道382号線を北上、浅海中学校を右折。厳原市街から約26km。車で35分。グーグルマップ

 

浅茅湾を見守る大岩「飯盛山」

 
美津島町にそびえ立つ飯盛山(いいもりやま)
名前の通りご飯を山盛り盛ったような形の、山というよりは岩のようなこの山ですが
今回は飯盛山の山頂から浅茅湾を望みます。
 
 
山道は所々整備されておらず少々危険な道のりとなっています。
 
特に岩場の部分になってからは風も強く、万が一転げ落ちたら止め処なく転がってしまいそう。
気を引き締めて岩にしがみつきます。
 
        
 
                                                           
 
やっとの思いで這い上がってみると、山頂には神社が。
山を下りた後でここの神社の由来や名前については色々と調べてみたのですが、資料が残っておらずわかりませんでした。
恐らくは飯盛山の大岩を奉る為の神社なのだと思います。
 
 
 
 
神社の反対側へと回ると……絶景!
道中の険しさも忘れてしまいそうな程です。
 
 
 
 
 
何処か下界とは違う雰囲気を感じる飯盛山に力を貰えたような気がするのでした。

平家物語の登場人物の墓? 佐須陵墓参考地

佐須陵墓参考地05

 祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり・・・で始まる平家物語。この巻十一、先帝の身投げの項には、壇ノ浦の戦いで戦局不利と見た二位殿が、「波の下には極楽浄土という都がございます。一緒に参りましょう」と孫の安徳天皇を抱きしめ海中に身を投じたとあります。このことから安徳天皇の御霊は壇ノ浦に近い山口県下関市の阿彌陀寺陵に祀られています。

 この他にも宮内庁指定の陵墓参考地として5カ所あり、壇ノ浦の戦いで身投げした安徳天皇は身代わりで、生き延びたという伝説が各地に残っています。対馬の久根地区もその一つであり、壇ノ浦の戦いから60数年後に対馬の地頭代だった宗重尚が、筑前与志井(吉井)から70歳の安徳天皇を迎え御所を営んだと伝承されていますので皆様にご紹介します。

佐須陵墓参考地02

佐須陵墓参考地03

佐須陵墓参考地04

 厳原市街から車を走らせること40分。のどかな田園風景が広がる久根地区に入ると、民家の間の細い道の入り口に「安徳天皇御陵墓参考地」の看板を発見。細い道を登っていくと説明看板と御陵墓へと続く石段がありました。石段を上ると久根地区を眼下に見渡せる広場があります。

佐須陵墓参考地06

さらに石段を上ると門がありました。宮内庁の管轄なので中には入れませんが、門の所から御陵墓を見ることが出来ました。写真ではそうでもないですが、実際は木々が生い茂りかなり暗い印象を持ちました。今となっては、この地に祀られているのが誰かはわかりませんが、近くにある銀山上神社のご神体である古鏡は、安徳天皇の遺品と伝わっていることから、壇ノ浦の戦いを逃れた天皇が晩年を対馬で過ごし崩御されたという伝承も信憑性がありますね。

佐須陵墓参考地01

佐須陵墓参考地07

(門外から望遠で撮影しています)

対馬特派員 鍵本泰志

名称    佐須陵墓参考地(安徳天皇御陵墓参考地)

場所    長崎県対馬市厳原町久根田舎(くねいなか)グーグルマップ

アクセス  厳原市街から県道24号を南下、県道192号を西に進み再度県道24号を北上厳原から21km車で40分から45分

力強い御神木「住吉神社の夫婦杉」

 

最近はすっかり冷え込み、冬模様の対馬ですが

そんな冬の寒さにも負けず力強い姿を見せてくれる夫婦杉が美津島町鶏知(けち)の住吉神社にあります。

 

 

周りの木々が色付いていく中で尚青々とした葉を生い茂らせているこの夫婦杉。

詳しい樹齢は判明しませんでしたが、幹の太さを見るに杉の中では恐らくまだまだ若い若夫婦さんなのでしょう。

 

しかし、こうして下から見上げてみると

杉の中では若いとはいえ人間の尺度では途方も無く長い時間を生きてきたのであろう事を実感します。

そんな事を考えながら木の幹に手を当ててみると、心なしか少し温もりがあるように感じるのでした。

 

住吉神社で奉られている彦波瀲武鸕鶿草葺不合尊(ひこなぎさたけうがやふきあえずのみこと)という神様のご利益のひとつには夫婦円満があるので

夫婦杉へ興味を持たれた方は是非ご夫婦で住吉神社をご参拝なさっては如何でしょうか!

対馬特派員 鍵本拓弥

創建400周年 万松院(ばんしょういん)

万松院01

 対馬藩主、宗家菩提寺の万松院は今年で創建400年を迎えました。対馬の観光パンフレットでは朱に塗られた桃山式の山門の写真が良く使われていますが、それ以外にも本堂や境内、歴代藩主の御霊屋、大杉など見どころがいっぱいなんですよ。

万松院10

 万松院は、元和元年(1615年)に対馬藩二代藩主の宗義成公が初代藩主、義智公の菩提のために創立。当初は松音寺といっていましたが、義智公の法号に因んで万松院と改められました。その後、歴代藩主や正室、側室などのお墓も建てられ藩主菩提寺としての役割をはたしてきました。

朝鮮国との外交に携わっていた対馬藩ですが、本堂内には皇室から下賜された額、朝鮮国王から送られた三具足(仏前に供える香炉、花瓶、燭台)や徳川歴代将軍の位牌が安置された部屋があり、朝鮮通信使の饗応役としての格式が感じられます。

万松院02

(萬松精舎の額。後水尾天皇の第三皇女、鏡の宮の書)

万松院03

万松院04

百雁木と呼ばれる132段の石段を上ると見えてくるのが万松院の大杉。その大きさは目通り6~7m、高さ35~40mの巨木で、樹齢は万松院創建以前といわれていることから400年以上となります。万松院を訪れたらぜひ、この大杉に手を当ててみてください。木のパワーが感じられるかもしれませよ。

万松院06 万松院05 万松院07

御霊屋は壮厳な雰囲気の中に巨大な藩主の墓がずらりと並び、金沢の前田藩、萩の毛利藩とともに日本三大墓地の一つといわれています。

万松院08  万松院09

対馬特派員 鍵本泰志

名称 万松院(ばんしょういん)

住所 長崎県対馬市厳原町西里192 グーグルマップ

アクセス 厳原郵便局前交差点を西へ450m。徒歩7~8分。

拝観料 300円 

拝観時間 8時~18時(冬季は~17時) 年中無休

神話の里で海幸彦・山幸彦伝説に思いを馳せる

 皆さんは子どものころに、海幸彦、山幸彦の物語を読んだことがありますか?元は古事記や日本書紀にある神代(かみよ)の時代のお話ですが、対馬の和多都美(わたづみ)神社にはその神話に基づいた井戸が伝わっています。

玉の井03

 説明看板によると瓊瓊尊(ににぎのみこと)の御子、彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと=山幸彦)は、失った釣針を求めてこの海宮にたどり着き、井戸の横の木に登っていたところ、水を汲みに来ていた侍女に見つかり、海神の豊玉彦とその娘、豊玉姫に厚いもてなしを受け、当地で3年を過ごし豊玉姫を娶(めと)った。とあります。不思議なことにこの井戸、浜辺の近くにありながら現在でも清水が湧き出ているようです。

物語はさらにこの先があり、山幸彦は海神豊玉彦から失った釣針と潮満瓊(しおみつたま)・塩涸瓊(しおふるたま)の宝珠をもらって帰途につき、この2つの珠を使って兄の海幸彦を服従させます。井戸の前の浜は満珠瀬(まんじゅせ)、干珠瀬(かんじゅせ)と名付けられ、この物語の故事を伝えています。

 ちなみにこの彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと=山幸彦)は、初代天皇といわれる神武天皇の祖父に、豊玉姫は祖母にあたるそうですよ。

満珠瀬 干珠瀬

(満珠瀬から干珠瀬を望む)

 この湾は古代から真珠貝が多い場所として知られ、近年では養殖も盛んに行われてきました。昭和47年にこの湾の養殖いかだから産出した真珠は10.8cmの逸品で、「わたつみの神の瞳」と名付けられました。海神の娘、豊玉姫が祀られている当地にふさわしい真珠ですね。

 

名称 和多都美神社の玉の井

住所 長崎県対馬市豊玉町仁位55番地 グーグルマップ

アクセス 厳原市街から国道382号線を北上。34.7km車で45分。和多都美神社境内手前の太田浜にあります。

今も語り継がれる美女伝説 鶴王御前

美女塚01

 対馬の南端、豆酘(つつ)集落に古くから語り継がれる美女伝説。今回は美人に生まれてきたが為に、自らの命を絶った鶴王御前の物語をご紹介。

美女塚の横に、その由来があるのですが、写真では読みにくいので書き写したものも掲載します。

美女塚02

美女塚03

 采女(うぬめ)とは、朝廷で天皇やその家族の身の回りの世話をする女官のこと。その条件は容姿端麗で高い教養が必要とされていました。どちらも持ち合わせていた鶴王御前ですが、物語では、郷里に残していく老いた母親が心配で村を出てすぐに自らの命を絶ってしまします。その際に今後、豆酘には美人が生まれぬようにと願うのですが、その願いは神様に聞き入れられたのでしょうか?

 昔から豆酘には美男美女が多いということは言われていました。確かに私のような胴長短足の日本人体型ではなく、すらっとバランスのとれた体型の方が多いようです。美人となると鶴王の時代と現代では基準が違うでしょうから一概に言えませんが、美人は結構な確率でいるのではないでしょうか?

 豆酘にハギトージンという仕事着があります。色々な柄を組み合わせた筒袖のこの着物、美女塚伝説とあわさって、美人に見られないようにツギハギの仕事着を着ていたと伝わっていますが、昔の写真などを見ると、実際はそれぞれの娘たちがパッチワークの着物で、おしゃれを競っていたように感じます。

 悲しい物語の美女塚伝説ですが、現在は公園や駐車場が併設されて、訪れる方も多いようです。対馬へ来られたらぜひ、こちらをお参りしてください。美人になれる!かもしれませんよ~

美女塚04

美女塚05

対馬特派員 鍵本泰志

名称   美女塚  グーグルマップ

厳原市街から車で41分18.9km

住所  長崎県対馬市厳原町豆酘

珠丸(たままる)の悲劇 

漁火公園から対馬海峡東水道を望む

 気象条件に恵まれれば、遠く壱岐の島影が見える漁火公園からの眺め。のどかな風景ですが、終戦直後にこの海峡で大勢の命が失われています。

昭和20年(1945年)当時、満州や朝鮮半島からの引揚者や戦災者が、着の身着のままで対馬へたどり着き、九州本土までの船便を心待ちにしていました。

珠丸遭難経緯

 戦後初の対馬から博多港への航海を担ったのは、九州郵船の珠丸(たままる・800トン)。10月10日に対馬の北端、比田勝港を出港し同日の夕方に厳原港へ入港。鹿児島県阿久根市に上陸した台風のため厳原港で欠航を続けた後、10月14日午前6時に、足止めされていた大勢の乗客を乗せ、博多港へ向け出港しました。

順調に航海していた珠丸ですが、午前9時に壱岐、勝本港の北方15マイル付近で、旧日本軍が敷設した機雷に触れ爆沈。乗船名簿には乗員、乗客730名となっていましたが、実際には切符を購入せずに乗船したため名簿に記載がない乗客が数多く、1000名以上乗っていたとみられています。

壱岐からは、機雷の掃海が不十分な海域にも関わらず、多くの漁船が命がけで救助に向かいましたが、救助されたのは甲板付近にいた185名のみ。女性や子供を中心に、船内にいたほとんどの方は珠丸とともに対馬海峡に沈みました。

珠丸遭難慰霊碑

珠丸遭難者慰霊塔2

 

 この事故から26年後の昭和46年(1971年)。遺族等によって犠牲者の慰霊と航海安全、平和への祈りを込めて珠丸遭難者慰霊塔が建てられています。800名以上とみられる犠牲者が出たにも関わらず、この事故は大きく報道されなかったため、全国的に知られることはありませんでした。

戦争が終わり、大陸や朝鮮半島からやっとの思いで引き揚げ、あと少しで九州本土の土が踏めるというところで旧日本軍の機雷により亡くなった大勢の犠牲者。この事実を忘れず、後世に伝えていきたいものです。

対馬特派員 鍵本泰志

名称   珠丸遭難者慰霊塔

場所   長崎県対馬市厳原町今屋敷668番地1 長崎県立対馬歴史民俗資料館横 グーグルマップ

対馬県直(つしまあがたのあたい)の墓? 矢立山古墳群

矢立山古墳群全景

 矢立山古墳群(やたてやまこふんぐん)

 今回のご利益ヨロシク!は、激動の7世紀に倭国の中央集権と対馬の密接な繋がりを感じさせる古墳をご紹介。

やってきたのは、西海岸にある矢立山古墳群。九州全域が梅雨入りした中、この日は晴天に恵まれ絶好の取材日和となりました。(取材日は6月4日)

 矢立山古墳群 入口ゲート  矢立山古墳群 石段

 県道44号線沿いにある矢立山古墳群の入口は、イノシシや鹿が入って来れないようにゲートが設置されていました。木の杖が何本も用意されていたので、それを手に山の中腹を目指して登っていきます。この日は暑かったので半袖を着ていたのですが、この登りでは大量の羽虫がいました。行かれる方は、長袖、長ズボン、首にタオルなど対策を講じた方が良いですよ。

フゥフゥ言いながら登ること10分、古墳がある地蔵壇に到着。 日当たりが良い開けた場所に3基の古墳があります。

矢立山古墳群 1号墳2

(1号墳)

矢立山古墳群 2号墳

(2号墳)

 この古墳群。日本書紀にもその名が記されている対馬の豪族、下県直(しもあがたのあたい)一族のものといわれています。7世紀当時、朝鮮半島には「高句麗」「新羅」「百済」の三国があったのですが、中国の「唐」が「新羅」と組んで「百済」を攻め滅ぼしました。

「唐」の支配下にあった「百済」では反乱軍を組織し、倭国に応援を求めます。それを受け倭国は、27,000人の兵を博多港から壱岐、対馬を経由し半島へ送りました。その結果、半島南西部の白村江の戦いによって倭国と百済の軍勢は大敗。倭国は唐や新羅が攻めてくることを想定し、西九州や対馬に防人を配置します。対馬が防衛の最前線になったことや、金田城(かねたのき)築城の協力などで朝廷は、この豪族を有力視しました。

 この古墳群が、対馬県直一族のものとされる理由に、7世紀当時の最新の墓である方形段築墳であること。棺桶には鉄釘が使用され、朝廷から有力な豪族に下賜された金銅装太刀、銅鋺が副葬品だったことが挙げられています。

入口ゲートの説明文によると、この場所は「蔵風徳水の地」といわれる風水思想に基づいているらしく、良い気が集まる場所とのこと。観光地ではありませんが、対馬に来られた際は、訪れてみてはいかがでしょうか?

対馬特派員 鍵本泰志

名称     矢立山(やたてやま)古墳群  グーグルマップ

場所     長崎県対馬市厳原町下原矢立

アクセス  厳原市内から国道382号線を北上。厳原中学校前の桟原交差点を左折し、県道44号を西方向へ進む。厳原から18.6km、車で30分。

古の海宮 和多都美(わたづみ)神社

和多都美神社01

 3世紀末に書かれた中国の史書、「三国志 魏書 東夷伝 倭人条」には、当時の対馬の様子が書かれています。そこには土地が険しく良田が無いため、海の物を食し南北に市糴(してき)していたとあり、古くから朝鮮半島や中国大陸、九州本土へ穀物や生活必需品を求め、海を渡っていたことが伺われます。海に生きる人々にとってその信仰対象は海の神様ということで、今回は和多都美神社をご紹介。

 神社の祭神は豊玉姫命(とよたまひめのみこと)と彦火火出見尊(ひこほほいでのみこと・山幸彦)。由緒によると「神代の昔、海神である豊玉彦尊(とよたまひこのみこと)が、この地に宮殿を造りそれを海宮(わたづみのみや)、この地を夫姫(おとひめ)と名付けた。宮殿の大きさは高さ一町五反、広さは八町四方あった。上国より失った釣り針を探しに来た彦火火出見尊と豊玉彦尊の娘、豊玉姫は夫婦となった」とあり、海幸、山幸伝説や浦島太郎の竜宮伝説を感じます。

和多都美神社02

 大潮の満潮時には、拝殿が建つ辺りまで海水に浸かることから、拝殿脇の松の木の根は奥へ奥へと本殿下まで伸び、龍のようなイメージを抱かせます。

和多都美神社05

神社の裏手は、スダジイ、ウラジロガシ、など照葉樹や落葉樹の森。一歩足を踏み入れると清涼な空気が流れているのを感じるとても気持ちの良い場所です。この森は和多都美神社の社叢(しゃそう)として長崎県の天然記念物になっています。

和多都美神社04

 この和多都美神社は古くから阿曇族が宮司を務めていたと云います。九州の福岡市東区にある志賀島や和白、糟屋郡などを本拠地にして列島各地や大陸へ航海していた阿曇族と対馬の海の民との関係も深いものでした。

対馬特派員 鍵本泰志

名称   和多都美神社(和多都美神社) googleマップ

住所  長崎県対馬市豊玉町仁位和宮55番

アクセス 厳原市内より国道382号線を北上、仁位の手前を案内看板に従い左折。35km車で50分