今から700年以上前の鎌倉中期、二度にわたる元寇(蒙古襲来)で対馬は惨状を極めました。文永11年(1274年)10月5日、軍船9百、兵3万の蒙古・高麗の連合軍に対し、対馬守護代、宗助国(そうすけくに)は親兵80余騎を従え、勇猛果敢にこれを迎え討ちました。
10月6日午前4時に始まった戦は、午前9時には全員討ち死にしたと伝えられており、宗助国の墓は、下原にお首塚、樫根にお胴塚と別々にあり、戦の壮絶さを物語っています。ときに助国、68歳の老将であったということです。
今から700年以上前の鎌倉中期、二度にわたる元寇(蒙古襲来)で対馬は惨状を極めました。文永11年(1274年)10月5日、軍船9百、兵3万の蒙古・高麗の連合軍に対し、対馬守護代、宗助国(そうすけくに)は親兵80余騎を従え、勇猛果敢にこれを迎え討ちました。
10月6日午前4時に始まった戦は、午前9時には全員討ち死にしたと伝えられており、宗助国の墓は、下原にお首塚、樫根にお胴塚と別々にあり、戦の壮絶さを物語っています。ときに助国、68歳の老将であったということです。