矢立山古墳群(やたてやまこふんぐん)
今回のご利益ヨロシク!は、激動の7世紀に倭国の中央集権と対馬の密接な繋がりを感じさせる古墳をご紹介。
やってきたのは、西海岸にある矢立山古墳群。九州全域が梅雨入りした中、この日は晴天に恵まれ絶好の取材日和となりました。(取材日は6月4日)
県道44号線沿いにある矢立山古墳群の入口は、イノシシや鹿が入って来れないようにゲートが設置されていました。木の杖が何本も用意されていたので、それを手に山の中腹を目指して登っていきます。この日は暑かったので半袖を着ていたのですが、この登りでは大量の羽虫がいました。行かれる方は、長袖、長ズボン、首にタオルなど対策を講じた方が良いですよ。
フゥフゥ言いながら登ること10分、古墳がある地蔵壇に到着。 日当たりが良い開けた場所に3基の古墳があります。
(1号墳)
(2号墳)
この古墳群。日本書紀にもその名が記されている対馬の豪族、下県直(しもあがたのあたい)一族のものといわれています。7世紀当時、朝鮮半島には「高句麗」「新羅」「百済」の三国があったのですが、中国の「唐」が「新羅」と組んで「百済」を攻め滅ぼしました。
「唐」の支配下にあった「百済」では反乱軍を組織し、倭国に応援を求めます。それを受け倭国は、27,000人の兵を博多港から壱岐、対馬を経由し半島へ送りました。その結果、半島南西部の白村江の戦いによって倭国と百済の軍勢は大敗。倭国は唐や新羅が攻めてくることを想定し、西九州や対馬に防人を配置します。対馬が防衛の最前線になったことや、金田城(かねたのき)築城の協力などで朝廷は、この豪族を有力視しました。
この古墳群が、対馬県直一族のものとされる理由に、7世紀当時の最新の墓である方形段築墳であること。棺桶には鉄釘が使用され、朝廷から有力な豪族に下賜された金銅装太刀、銅鋺が副葬品だったことが挙げられています。
入口ゲートの説明文によると、この場所は「蔵風徳水の地」といわれる風水思想に基づいているらしく、良い気が集まる場所とのこと。観光地ではありませんが、対馬に来られた際は、訪れてみてはいかがでしょうか?
対馬特派員 鍵本泰志
名称 矢立山(やたてやま)古墳群 グーグルマップ
場所 長崎県対馬市厳原町下原矢立
アクセス 厳原市内から国道382号線を北上。厳原中学校前の桟原交差点を左折し、県道44号を西方向へ進む。厳原から18.6km、車で30分。