屋敷神と魔除け石

屋敷神 半井桃水館

 対馬に古くからあるお宅の庭の隅に、屋敷神が祀られているのを見かけます。これは神社の氏神とは別で、その家固有の神様として鬼門とされる敷地内の北西、または北東に祀られることが多いようです。

そこで今回のご利益ヨロシクは、ちょっと変わった対馬藩家老屋敷跡に残る「陰陽石の魔除け石」をご紹介。

氏江家長屋門

 国道382号線沿いにある立派な長屋門。こちらは対馬藩主宗家の一門、氏江氏の屋敷跡で現在は長崎県対馬支庁や地方局、振興局となっています。石垣は人の背丈よりはるかに高く、李氏朝鮮との外交、交易に携わっていた対馬藩の栄華が忍ばれます。

氏江通り

 広大な敷地を囲む石垣塀沿いに進むと、北東の一角が張り出して、衝立状の大小の石が置かれています。説明看板によると「陰陽石の魔除け石」とあり、さらに外敵や賊から守るため武者が隠れていたことから「武者隠し」とも言われるとあります。

陰陽石の魔除け石

 陰陽石とあることから忌むべき方角に二つの石を祀り、家運と子孫繁栄を願ったものと思われますが、衝立状の石の裏側に武者を隠すということにも使えるところが、合理的ですね。

対馬特派員 鍵本泰志

名称 対馬藩家老屋敷跡

場所 長崎県対馬市厳原町宮谷

アクセス 厳原港から国道382号線を北上、1.4km徒歩で20分程度

松村安五郎と吉野数之助の碑 大船越瀬戸

忠勇義烈の碑01

 厳原から国道382号線を北上すると大船越瀬戸があります。この場所はもともと地続きだった対馬で、地峡部だったことから、東岸と西岸の間の丘を船を曳いて移動させたり、積み荷だけを移動したりと苦労していました。そのようなことから寛文12年(1671年)、対馬藩は開削工事を行い東西を船で行き来出来るようになりました。

 今回はこの瀬戸にまつわる悲しい出来事のお話です。

大船越瀬戸02

大船越瀬戸03

 文久元年(1861年)2月にロシアの軍艦ポサドニック号が浅茅湾に侵入。対馬藩の許可を得ず芋崎を占領し、石積みの波止場、井戸、宿舎、家畜小屋を作ったりと傍若無人の限りをつくしました。

 大船越瀬戸は外国へ行く船が通るため、船改めの番所が置かれていました。同年4月にロシア艦のボートがここを強行突破しようとしたことから、番所の士卒や村人が止めようとしたところ、ロシア兵の発砲で農民の安五郎(後に士分扱いとなり松村姓)

が即死。士卒の吉野数之助と大塚清蔵が捕えられポサドニック号へ連れ去られました。その後二人は釈放されましたが、傷を負った吉野数之助は手当を拒み自ら命を絶っています。

  忠勇の碑  義烈の碑

 その後、咸臨丸で来島した幕府の外国奉行が交渉にあたるも進展はなく、幕府によるロシア領事への退去交渉や英国海軍の協力で半年に渡るロシア艦の占領は幕を閉じました。

 番所の跡には犠牲になったお二人の顕彰碑がひっそりと建っていました。松村安五郎の碑(写真左)は「忠勇」、吉野数之助の碑(同右)には「義烈」と彫られています。悲しい出来事ですが、現代では珍しい勇気や正義感、忠義の心を最後まで持ち続けたお二人から、教えられるものがありました。

対馬特派員 鍵本泰志

参考文献 対馬国志第二巻 中世・近世編 永留久恵著

 

名称 松村安五郎と吉野数之助の碑

アクセス 厳原から国道382号線を北上。大船越瀬戸の手前を左折し300m程進むと左手にあります。

厳原から約14km。車で20分 

 

 

 

 

 

石と宗教 明嶽神社

明嶽神社02

 対馬の神社を巡っていると、ご神体が石となっている所が多いようです。なぜ石を信仰するのか不思議に思われるかもしれませんが、例外を除き、石そのものを祀っているのではなく、神様の依り代として石を利用しているのであって、信仰の対象は神様なんですね。また、別の利用法としては、海岸で石を拾い、病気平癒などの願いを込めて神社に奉納するような地区もあります。

 そこで今回は、落ちてきた星がご神体と伝わる「明嶽神社」をご紹介。対馬の中央、西海岸にある豊玉町の銘(めい)にあり、明星嶽の懐に抱かれ、地元の方々に大切に祀られています。鳥居の右側の木がすごいですね。

明嶽神社01

明嶽神社03

 神社の由来を津島紀事で調べてみると

『明星神社 神体石 長さ一尺ばかり あたかも人の形のごとし。 かつて風もなく、雲もなき夜に星 渚に落つ。 その声 雷のごとく。 変化して石となる。 よってその岩の上に壇を築いて神石を祝い奉る。・・・・』(原文は読みにくいので、読みやすく変更してます) とあり、こちらのご神体は隕石を祀っていることがわかります。現在は、明星嶽の神を祀る嶽神社と合祀されているのか、鳥居には明星神社ではなく「明嶽神社」の額が掛っています。

明嶽神社04

明嶽神社06

 津島紀事には、ご神体の隕石が落ちた様子は書かれていても、その年代が書かれていないため、いつの時代の隕石かわかりませんが、津島紀事は江戸時代末期の文化六年(1809年)に書かれているので、それ以前のこととなると少なくとも200年以上前から祀られていることになります。人の形をした30cmほどの落ちてきた星。昔の人々はそこに宇宙の神秘と神の存在を感じたんでしょう。また、対馬全島にいえることですが、その信仰が代々受け継がれて大切にされていることも忘れてはいけません。

 神社の近くに対馬の伝統的な高床式倉庫がありました。衣類や穀類を収めていた倉で火事の際、類焼しないよう民家とは離れて建てられています。昔は板状の石を重ねて屋根にし、強風にもびくともしませんでした。こちらの倉庫は瓦を使ってありますね。ただ、痛みが激しく、早急な修理が必要かと感じました。だんだんこういった倉庫も少なくなっているので、出来れば後世に残していきたいですね。

銘の高床式倉庫

 

対馬特派員 鍵本泰志

地図Google map

名称  明嶽神社

場所  長崎県対馬市豊玉町銘

アクセス 厳原港から42km 車で1時間10分

国道382号線を北上。豊玉町田を左折、同町小綱を右折。

参考文献 「津島紀事」平山棐 著

対馬卜部の祖 雷大臣命が祀られた太祝詞神社

太祝詞神社 鳥居 狛犬

 インターネットや雑誌で人気のコンテンツというと占い。占星術、四柱推命、タロットカード、易など数多くの種類がありますね。というわけで今回は、対馬卜部(ウラベ)の祖が祀られた太祝詞神社(ふとのりとじんじゃ)をご紹介します。

 ヤマト朝廷の時代、国家の行く末を占うのに、海亀の甲羅を利用した亀卜(キボクまたはカメウラ)を行っていました。その起源は古代中国の殷王朝で、古くから行われていました。この時代、対馬から10名、壱岐から5名、伊豆から5名の卜部が神衹官として都に招かれています。

太祝詞神社 参拝

 霊験あらたかな名神大社として、延喜式神名帳に載っている太祝詞神社のご祭神は、太祝詞神(天児屋根命:あめのこやねのみこと)と、その十四世孫と伝えられる雷大臣命(いかつちおおおみのみこと)。

 天児屋根命は天岩戸神話で天照大神が岩戸に隠れた際に祝詞を唱え、鏡を差し出したという神様で、祝詞と出世の神。雷大臣命は卜術が優れており、神功皇后の三韓征伐に従軍した後対馬に残り、祭祀のやり方を教えたり、太占(フトマニ:鹿の肩骨を焼いて占う)や亀卜を伝えた対馬神道、卜部の祖といわれています。

 規模は小さいですが、名神大社だけあって境内はリンと張りつめた気が流れていて、清らかな気持ちで参拝することが出来ました。拝殿の隣には雷大臣命の墓といわれる石塔があり、そのたたずまいから地元の方から大切に祀られている様子が感じられました。

対馬特派員 鍵本泰志

太祝詞神社 宝篋印塔

 

名称    太祝詞神社(ふとのりとじんじゃ)

住所    長崎県対馬市美津島町加志

アクセス  厳原港から国道382号線を北上、十八銀行美津島出張所の三叉路を左折し、県道24号線を進む。

今里と加志の分岐を加志方面へ左折。厳原から約24km、車で30分~40分。途中、道路が狭く離合しにくい箇所がある。

海上航海のパワーストーン!寝釈迦鼻と東風石

対馬 厳原港 寝釈迦鼻 寝釈迦岩 野良崎

 対馬でフェリーや高速艇が入港する港は比田勝港(ひたかつこう)と厳原港(いづはらこう)の二つですが、ここ厳原港の入り口「野良崎」に「寝釈迦鼻.」という面白い形の岩があります。一見なんの変哲もない岬ですが、よく見るとお釈迦様が横になっている涅槃像の形をしています。

対馬 寝釈迦鼻 寝釈迦岩 野良崎

 江戸時代、対馬藩士の平山東山(棐)が書いた対馬の地誌「津島紀事」に「耶良崎(野良崎)の磯を寝釈迦という形。涅槃の像に似たれば也」とあり、その存在は古くから知られているようです。また、「津島紀事」には「その右手に二つの霊石ありて、陽石(おいし 起上り小法師の形也)、陰石(めいし)と云い、巫祝(ふしゅく・・・神事をつかさどる者)これを祭り石を撫で、風を祈れば東風吹きよりて東風石(こちいし)と云う」とあります。

 帆を張り風を受けて進む帆走や櫓走が主だった時代、東風石には良い風を、寝釈迦鼻には航海の安全を祈ってきた対馬の人々。その思いを忘れないように後世へ伝えていきたいですね。

対馬特派員 鍵本泰志

名  称  野良崎の寝釈迦鼻(ねしゃかばな)

場  所  厳原港ターミナルから南東へ約900m。新桟橋の防波堤からと、対岸の志賀の鼻公園から見れます。

参考文献 「津島紀事」平山棐 著 国立国会図書館近代デジタルライブラリー

今宮神社 時代に翻弄された小西マリア

今回の主人公、小西マリアは戦国から安土桃山時代にかけてのキリシタン大名、小西行長の娘で、15歳の時に対馬島主(後の初代対馬藩主)である宗義智(そうよしとし)の正室となりました。

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対馬のお正月風景

皆様、明けまして おめでとうございます。

天気予報では、曇りとなっていた対馬の元旦。

今年の初日の出は拝めないと半ばあきらめていましたが、奇跡的に東の空が晴れてご来光を拝むことが出来ました。

 

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古の初代銀山 銀山上神社(ぎんざんじょうじんじゃ)

日本書紀に天武天皇三年(西暦674年)に対馬で銀が産出され、日本で銀を産した始まりと記されています。

今回はその銀山にゆかりがある銀山上神社を訪れました。

 

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広島から対馬へ 入江神社

秋晴れの中、海沿いにドライブしていたら偶然、お祭りをしている神社に出くわしました。

聞きなれない「入江神社」という社号を不思議に思い、地元の方々に神社の由来をお聞きすると、遠く広島から分祀された神様だということでした。

 

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町内中のお地蔵様をお参り「地蔵盆」

4月の対馬島ブログで、私が住んでいる厳原町には30箇所以上のお地蔵様が奉られている記事を書きましたが、(4月の記事はコチラ)毎年、7月24日には子ども達が、町内を巡りお地蔵様にお参りする「地蔵盆(じぞうぼん)」が盛大に行われます。

 

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